かくばかり 世界全土にすさまじきいくさの果ては、誰か見るべき

折口春洋『鵠が音』(1953年)

 折口春洋(旧姓、藤井)は、折口信夫(釈迢空)の教えを受け、21歳の時から迢空の家に同居、師の生活にもっとも身近に接した。同性愛を自認する迢空の最愛の恋人である。戦争の激しくなるなかで出征した春洋が硫黄島の守りについたことを知った迢空は、養嗣子として入籍、法律上父子の関係になる。硫黄島の激戦はすさまじいものであった。春洋の消息も絶える。

昭和20年3月19日に戦死の報があったものの、詳細な状況は一切不明、米軍がはじめて硫黄島に接近した日を命日と定めたという。それが2月17日である。知られたことだが、春洋の故郷、能登の一の宮の海に近い墓には、「もっとも苦しき/たゝかひに/最もくるしみ/死にたる/むかしの陸軍中尉/折口春洋/ならびにその/父 信夫/の墓」という墓碑銘が迢空の文字によって刻まれている。

春洋は、二度召集を受けている。金沢の連隊ではやがて戦地へ向かう兵隊たちの教育にあたることが多かったようだ。迢空の手によって編集されたこの歌集は逆年順になっている。前半にはそうした若き兵との生活が歌われ、教えた兵の出征を送る場面がとりわけ印象に残る。

 

健やかに征きてかへれと 告げて後、たち征きにしが、まだ暗き営庭(ニハ)

若きらが たち征きて後(ノチ) 絶えゐしが、まさに はげしきたゝかひに入る

 

岡野弘彦は中公文庫版『鵠(たず)が音』の解説に、「戦争が追い追いに苦しくなり、その実体におびえながら官民一様に異様な興奮をたかぶらせていた時に、この平静な兵士への愛情の歌を兵営生活の日々に詠みつづけていた歌人がいたということに、救われるような思いを感じる」と書き記す。まさに、そうなのだろう。

「かくばかり」の歌は、戦争の全貌をほぼ見渡せる現在の目からすれば、当たり前のように思える歌かもしれないが、これは戦中の、しかもやがて戦闘の前衛にたたかい、死んでいこうという一兵士の歌である。さながら人類の未来を見とおしたかのような神の視点からの啓示のようにも思える。長く記憶してほしい一首である。折口春洋は、この時まだ38歳であった。

戦後、硫黄島の洞窟から偶然発見された軍の書類には、「藤井春洋、志操堅固、身体極めて強健にして、いかなる困苦欠乏にも耐う」とあったという。春洋は、兵隊であったのではない。歌人であり、古典学者であったのだ。