生きて来てふっと笑いぬ今正午百合ケ丘は坂ばかりある町

松実啓子『わがオブローモフ』(1983)

 

若い日に読んだ歌集で火傷のように胸の奥に残っているようなものが誰にでも何冊かあるのではないだろうか。歌作りがうまくなるために読んだのではなく、理由もなく惹かれてお守りのようにすがって読んでいたような詩集や歌集。その中の一冊が『わがオブローモフ』である。

さてこの一首、意味はすんなりととれるが、「笑いぬ」というところ、作者はどんな笑みを浮かべているのだろうか。私にはうっすらと自らの生を嘲笑するような笑みに感じる。のどかな真昼の「百合ケ丘」という幸福そうな名前の坂の町にいて作者は誰にむけるでもなくひっそりと笑っているのだ。

こういう歌がある反面、相聞歌は相手にストレートな気持ちを投げている。

 

もっと騙され続けていよう夕まぐれ君のかたえに瞳を閉じたまま

耳濡れておりしそのこと可愛くて君をこの掌(て)の中に閉じこめる

 

騙され続けることを喜び、手の中に閉じ込めたいほど君を想う。無垢な愛が隠されることなく表現されている。このような素直な相聞歌と冒頭の歌のような虚無感のアンバランスな精神の感性がこの歌集の魅力といっていいだろう。

 

歌集名にある「オブローモフ」はゴンチャロフの長編小説の主人公で映画化もされている。純真で才能を持ちながらも無気力、無為の生活を送るという。

「元旦は老オブローモフが富士を見ん雪を見んとぞのそり起床す」という晋樹隆彦の歌が今年の「うた新聞」2月号にあった。