雪しろの はるかに来たる川上を 見つゝおもへり。斎藤茂吉

釈迢空『倭をぐな 以後』(1955年)

 斎藤茂吉は、1953年2月25日に亡くなった。61年前のことだ。同じ年の9月釈迢空・折口信夫も没する。同じアララギに所属した時代を持つ二人、葛藤があって迢空はアララギを離れるが、終生意識し合った。

迢空の歌で現在残っている最後の一首が、この歌である。辞世の歌のようにみえてしまうが、迢空に辞世はない。身体の衰弱は、それを許さなかった。

最後の夏、迢空は箱根の叢隠居に病臥する。箱根に連れて来てくれた運転手に8月16日に再会する。運転手を山形出身と知った迢空は、お礼にと言って、しばらく考え、この一首を色紙に書いたという。山形県から茂吉を連想した即興的な一首であり、発表する意思があったかどうか。

「雪しろはご存知でしょう。雪しろ水のことです。これは角川君に取られないようにしなさいよ」と言ったというから、迢空はまだまだしっかりしていた。

雪しろ水は、雪がとけてできた水、つまり最上川の水を雪どけの水だということだろう。藤井貞和さんが指摘していることだが、『日本国語大辞典』の「ゆきしろ」の項には、季語〔春〕として加藤楸邨の句が挙げられている。「かうかうと雪代が目に眠られず」『山脈』(1955年)である。迢空の方が2年早いというが、どうだろう。

この歌は即興的に出来たものだが、印象は強い。上句の表現ののびやかな調べが、雪しろ水を集めた川の流れと遼遠な空間を呼び寄せ、その水上を遠望する。一義的には見ているのは作者迢空と考えるのが自然であろう。最上川の源を遠望して茂吉を思う。

しかし、そこは戦後の茂吉が実際に立っていた場所でもある。見て思っているのは茂吉だともとれる。最上川の岸に立つ茂吉の写真があった。

迢空が亡くなるおよそ半月前の即興だが、この明るさに私はほっとする。斎藤茂吉を歌って、次の一首もある。

 

斎藤茂吉氏(ウヂ)の歌の くさぐさの、おもしろきを思ひ、ふと笑ふなり

 

1950年の歌だ。迢空は、茂吉を意識し続けていた。そしてその人間性あふれる歌を愛していたと思える。