ここにただ仰ぎてゐたり青空を剥がれつづける場所の記憶を

小林幸子『場所の記憶』(2008年)

かなしくふかい愛の歌。
まずこの一首だけをとりあげて読む。読み終わって脳裏にひろがるのは、がらんどうの「場所」である。あるのは廃墟か、森か、草原か。けれど、かつてはそこに〈何か〉があった。
〈何か〉があり、〈誰か〉がいて〈何ごとか〉が起こったのだ。
生きものは死ぬ。では、それらを記憶しているのはなんだろう。作者は「場所」だとおもいあたる。わたしも「場所の記憶」、あるいは〈気配〉が「青空を剥がれつづける」という感覚には共感できる。
たとえば、別れたこいびととの思い出の海。あるいはかつて住んでいた家。それらを想像してみると、たしかに思い出は空から降ってくる。

けれど、実際この歌が生まれたのは、なまやさしい「記憶」の「場所」ではない。アウシュヴィッツの強制収容所の跡地。そこでは、自分の存在さえもが揺らぐような畏れに立ち尽くすしかない。無力。怒り。それしかない。

所長ヘスが家族と住みしよき家がポプラ並木の向うに見ゆる

先日、『縞模様のパジャマの少年』という映画を観た。舞台はホロコーストのためのユダヤ人強制収容所と、この歌のような「よき家」。そこに住む少年と、縞模様のパジャマのような囚人服を着た少年の物語。観おわった後、しばらく席を立てなかった。

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