眼と心をひとすじつなぐ道があり夕鵙(ゆうもず)などもそこを通りぬ

大森静佳『てのひらを燃やす』(2013)

 

明るさと寂しさが入り混じった一首である。前川佐美雄の「ゆふ風に萩むらの萩咲き出せばわがたましひの通りみち見ゆ」を思い出した。「眼」と「脳」をつなぐのでなく「眼」と「心」をつなぐ道。見ることが理解するのではなく、心で感じているのである。「ひとすじ」という言葉にはひたむきさのようなものが見える。

上の句だけを読むとその道は抽象的な存在なのだが、下の句で夕鵙が通ることによりあたかもその道が眼と心の間にまっすぐに通っているように具体化される。「夕鵙」はどこか孤独な存在である。「なども」とあるから別の小さなものも通っていくのだろう。一首の中で上の句にも下の句も喩が使われている。

しかし結局、こういう歌は理屈で読んではいけないとも思う。感覚的にふわっと触れるように読めばいいのではないか。

 

水細くして洗う皿もう君が学生でないことを思いつつ

魚の(くち)はぎんいろの輪だ 水辺には声持たぬもの集まりやすく

 

『てのひらを燃やす』というタイトルにあるように、あとがきで大森は「詠うことは自らの手を燃やすような静けさの行為である。」という。なるほどとおもう反面、私はここにあげたように「水」をモチーフにした歌に強い印象を持った。一首目には心細さ、相手に置いていかれるような寂しさがある。こういう喩を使わない歌は歌集の中では珍しいがとてもいいと思う。二首目は上句の表現がみごとだ。そこからひきだされた下句が展開し物哀しさを連れてくる。

 

「水」という素材が連れてくる冷たさや存在の心もとなさが歌集『てのひらを燃やす』の底に流れているように思う。大森のあこがれる「燃やす」ような行為の裏側には、その冷たさが激しく流れていてふたつが引き合っているように思うのだ。