こゝをまたわれ住み憂くてうかれなば松はひとりにならむとすらむ

西行『山家集』(12世紀)

 日本古典詩歌人のなかでもっとも人気のあるのは、芭蕉であろう。その芭蕉がもっとも敬愛したのが西行であり、芭蕉と並び親しまれてきた。とはいえ西行の生涯については、伝説・伝承のたぐいは多いものの、確かな史料は乏しい。

西行は、本名佐藤義清(のりきよ)といい、鳥羽院の北面の武士であった。しかし若くして出家、以後京都東山や嵯峨、鞍馬の奥に住み、伊勢に下ることもあったが、三十代前後に高野山に上った。白河の関を越え平泉を訪れたこともある。まさに旅を栖とし、山に修行、また時に勧進(寄付を募る)に歩いた。

兵衛尉時代には、鳥羽院の后で崇徳、後白河帝の生母の待賢門院に近く接していた。それがこの歌につながる。保元元(1156)年、高野から下山していた西行は鳥羽院の崩御から引き続き起こる保元の乱に際会した。後白河帝に敗れた崇徳院は讃岐に流され、怨みを積らせて配所に没する。その怨みは凄まじき怨霊と化す。

西行が崇徳院の陵墓のある白峰を訪れたのは、仁安二(1167)年か翌年のことだという。『山家集』には、「讃岐にもうでて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形もなかりければ」との詞書のもとに、次のような歌が収められている。

 

松山の波の気色(けしき)は変らじを形なく君はなりましにけり

 

さらに「白峰と申しける所に御墓の侍りけるにまゐりて」と詞書して、

 

よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何にかはせん

 

西行による崇徳院の亡霊への鎮魂の歌である。四国には空海の生誕地だけにその遺跡も多い、西行はゆかりの地に庵をむすび行を修する。その庵に松が立っている。その松にちなんでの歌が、この今日の一首である。この庵をまた住みづらくなって私が漂泊の旅に出るとすれば、松よ、お前は独りになってしまうのだなあ、と松に歌いかける形をとって、ここはこの地にゆかりあるものへの別離の情を述べる。ゆかりのものの中心は崇徳院であろう。亡き霊の孤独を歌い、すぐれた鎮魂の調べの一首である。しかし、崇徳院の怨みはこれで鎮まったであろうか。

 

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃

 

西行はこの歌どおり建久元(1190)年2月16日に円寂する。旧暦だから今年のその日は3月16日、明日になるだろうか。