百キロで走ってごらん掌を出せば触るる空気は乳房の如し

岩切久美子『湖西線』(2014)

 

面白い感覚に思わず立ち止まった歌。高速道路を走っている車だろうか。危ないから手や顔を出してはいけないとよく言われるけれど、そんなことは気にせず手を出そう。すると空気が「乳房」のようだったという。「乳房」のところがよくわかるのだ。走る車の窓から触れる空気は、柔らかな塊になって指に触れてくる。目には見えないけれど押せば返してくるような空気の弾力性が「乳房」でよく表われている。一首のリズムにスピード感がありぐいぐいと結句まで言葉に力が満ちている。

 

階段をどどどと降り来し若者のまとう空気に躓くわたし

 

「空気」を詠んだ歌にはこのような一首もある。駅などの階段で、早足に降りてくる若者たち。ぶつかりはしないものの作者はその勢いある空気によろめきそうになるのだ。よくわかる光景だ。

 

『湖西線』というタイトルからもわかるように、作者は琵琶湖のほとりに住み季節や生き物をじっくりと見つめて詠んでいる。

 

鳥もヨットもみな帰り行く帰るとうやさしき刻を湖水は光る

味噌汁に大根透ける今朝の比良匂うが如し薄ら雪まとい

土筆の花粉挽き茶の如き薄緑はらはらとわがブラウス汚す

 

どの歌もやわらかく味わい深い。二首目の「比良」は琵琶湖の西岸にある比良山。「比良の暮雪」は美しく、近江八景の一つである。上の句の味噌汁の大根の描写に冬の朝の様子がぱっと見えて来る。最後の土筆の歌などは比喩が鮮やかである。土筆の花粉は独特で、白い布についたらとれないほど細かである。その比喩に「挽き茶」というものを連れてくる所に、作者の感性の余裕、ユーモアのようなものを感じる。

 

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