父母がつけたるならん次々に名を呼ばれ氷上に出で来る選手

稲葉京子『天の椿』(2000)

 

ソチオリンピックでは選手からたくさんの感動をもらった。また現在もパラリンピックが行われ嬉しい入賞の報せが届いている。そのようなことを思いながらこの一首を読んだ。

 

スケート競技のシーンであろうか。高らかに名を呼ばれて出て来る選手達。日本人だけでなく世界中の選手にそれは共通だ。その名前は紛れもなくその父母がつけ、希望と願いをこめてつけた名だ。そして健やかにその子を育んできた証である。当然のことなのだけれどあらためてこのように詠まれると、なるほどと思い、一人一人に名前のあることが何か嬉しい。

 

犬の背をひとつ紋白越えゆけりいのちといふはみな動くなり

生きるとはこの世に用のあることかひかり号にて擦れ違ひをり

さびしき人と思ひてをりしその母のかたみとなりて世に在り経つつ

 

いのちとは何か、生きるとは何か身の周りから作者は考えている。犬の背をふわりと越えてゆく小さな紋白蝶。生命とはまず動くことだと作者は認識する。高スピードで走る新幹線。その車輌がすれ違い知らない人同士がすれ違ってゆく。みんな急いでどこかへ向かっている。生きるということはこの世に何かの用があるということなのだ。それがどんな小さな用でもそれが生きることなのだ。最後の歌も好きな一首である。作者は母を寂しいひとだと思っていた。その母が亡くなり自分はその母の「かたみ」という存在になったと自覚する。そして母の寂しさもわかる年齢になったのかもしれない。

 

誰かを失うことは辛いことだが誰かのかたみしとして自分の存在があるということ、生きていくという考え方は何か励まされるところがある。