蜜入りの南高梅の一粒をねぶりて足れるわが夕がれひ

佐藤祐禎「未来」2012年10月号

3年前の東北大震災、福島第一原発の事故の記憶が新たになったところで、佐藤祐禎さんの歌から、もう一首。

「路上」128号(2014年3月)は、佐藤祐禎小特集のおもむきである。避難以後の作品から100首を選び、本田一弘の佐藤祐禎論「人間どもよ」を掲載する。100首選はいわき市に住む高木佳子。本田は会津若松市に住む。「路上」の編集の佐藤通雅は、仙台市。つまり東北大震災の当事者による特集である。

佐藤祐禎さんは、福島県双葉郡大熊町に農業をいとなみ、原発反対をうたいつづけてきた。しかし、原発事故により大熊町からの非難を余儀なくされ、いわき市へ移住。「その後新居を用意し、新しい生活に入ろうとする矢先に突然倒れ、入院生活を送っていたが、2013年3月12日、ついに帰らぬ人となった」(佐藤通雅)という。

その避難生活中も短歌を作りつづけてきた。そのうちの100首が「路上」に紹介されている。

 

突然の大揺れに地べたにはりつきぬ見るみる前の地面裂けゆく

北を指す雲よ大熊に到りなば待つ人多しと声こぼしゆけ

ニンゲンはやがて滅びむおそらくは自ら引き出しし核の力に

病む人あり死にたるもあり隔てつつ知らざれば見舞ふことすら出来ず

東京の電気はどこから来たのかと声を大にして言ひたきものを

百メートル四方に家なき地より来て街の暮らしは異界のごとし

 

一首目は、なまなしい震災体験、二首目以降はいわき市へ避難してからの歌であろう。時に声高に原発批判をうたいながらも、避難生活のわびしさ、せつなさを感じさせる。知人、友人の病気や死を知らずに過ごし、人間の滅びを暗示して、街の生活を「異界のごとし」と言う祐禎さんの心の内がさびしく思われる。

今日の一首は、祐禎さんらしくないかもしれない。しかし、100首を読んで、もっとも惹かれた。梅干ひとつで満足してしまう、そんな夕餉。食欲すら奪われてゆく避難生活。どちらかというと祐禎さんの歌は元気の良いものが多いように印象されていた。だが、当然ながら、原発反対を唱えながら人間の無力を感じずにはいられない。そんな心の内が、この歌には滲んでいないだろうか。祐禎さんの優しさを見たように思えたのである。

(本来は、佐藤祐禎氏と記すところだが、歌集や本田氏の文章を読んでいると「祐禎さん」と呼びかけたい思いにかられる。ごく自然に「祐禎さん」と書いていた。すでに亡くなられた、しかも一面識もない年輩歌人に対して失礼は承知しながら、そのままにしておく。)