うちなびき春は来にけり青柳のかげふむ道に人のやすらふ

藤原高遠『新古今和歌集』(1205年)

 

「うちなびき」は「春」の枕詞だが、ここでは実際の草木のなびく光景を思い浮かべていいだろう。さみどりなびく柳の影を踏んで、人は足をとどめやすらいでいる。技巧的な歌が多い『新古今集』だが、この一首は字義通りに春の訪れをかみしめている。柳の芽吹き、そしてさみどりの柳葉のそよぎは、まさに春の来訪の知らせであり、気付きの「けり」が効いている。

この一首も大西巨人のアンソロジー『春秋の花』(光文社文庫)に気づかされた歌である。大西の評には、妻に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行『古今和歌集』)が、秋の訪れを感じさせて名歌だが、これに匹敵する春の到来を告げる古歌をと問われて、この歌を口ずさんだことが書かれている。「春の来着を表現した古歌集秀吟は、むろん少なくないが、もう長らく、私は、その種のものとしては、」「たちまち掲出歌を思い浮かべる」と大西は言う。

私も、この大西の紹介を読んで以来、この歌を春の確認の歌として毎年口ずさんでいる。柳のさみどりの枝垂れた枝のかがやきは、まさに春さなかを知らせてくれる。大西は、さらに「Spring has come.というよりも、むしろSpring is here.という感じをさながら僕直(ぼくちょく)に表している作」として「愛重(あいちょう)」してきたと絶賛する。

私も、この意見に100%同意する。この歌のやさしいことばの斡旋、そこにもたらされるやわらかな明るい調べ、口ずさめばあたたかな春と知る。

藤原高遠(949~1013)は、『新古今集』に、他に二首採られている。

 

七夕の天の羽衣うち重ね寝(ぬ)る夜涼しき秋風ぞ吹く

水籠りの沼の岩垣つつめどもいかなる隙(ひま)に濡るる袂ぞ

 

一首目は、七夕、秋の歌であり、二首目は恋の部、「はじめて女につかはしける」と詞書がある。水籠(みごもり)沼は、隠沼(こもりぬ)とも言い、草などが茂って、水のおもてが見えない沼。その沼の岩垣、それが包み隠しているように、人目を包み隠しているにもかかわらず、いったいどのような隙間から涙が洩れて、こうも濡れてしまう袂なのでしょうか。女のもとへ恋する思いを告げているということだろう。

いずれも明朗な歌である。

この歌に春の来着を感じた大西巨人、戦後の偉大なる小説家・思想家であったが、3月12日に亡くなられた。97歳であったという。今年の春の来着を知ることはなかった。大西は世界が不安定化するこの時代の行く末をどのように見ていたのだろう。『神聖喜劇』は、日本を代表する世界文学だと思う。大切な人がまた一人失われた。