水漬く屍と死ぬべかりしを生きつぎて穢汚の裡に在るが宜しも

村上一郎『撃攘』(1971年)

 

村上一郎の名を知る人も少なくなっているのだろう。吉本隆明、谷川雁とともに「試行」の創刊にかかわり、後に「試行」が吉本の単独編集になると、村上は「無名鬼」を出し、また桶谷秀昭らと「典型」を刊行する。1960年代の思想界の一翼を担う存在であり、出版界にも独特な視野をもって歌人たちにも大きな影響力を発揮していた。馬場あき子に『鬼の研究』、岡井隆と金子兜太に『短詩型文学論』の執筆を促し、山中智恵子の歌集を編集するなど現代短歌の動きに力を発揮した存在であった。

海軍主計大尉として軍籍にあった経歴を持ち、また戦後は共産党に入党していた時期もある。ラディカルな思想、行動を自分に課していたように見える。『非命の維新者』『浪曼者の魂魄』『北一輝論』『志気と感傷』『草莽論』、これらの著作の題を並べるとその思想の所在が知れるだろう。

三島由紀夫の自決に大きな衝撃を受けて、その翌年三島への追悼の歌を含む歌集をまとめた。それがこの歌を含む『撃攘』という一冊である。短歌は、若き日から折々につくっていた。

 

憂ふるは何のこころぞ秋の涯(はて)はからまつも焚け白樺も焚け

無花果(いちじゆく)はいまだに熟れず少年の日もこの翳(かげ)にひとを恋ひゐし

 

若き日の歌である。水戸学や萩原朔太郎の影が色濃い。つまり漢文体が文学的基礎に習得されたロマンティシズムというところか。

 

霜月の蒼穹(そら)晴れゐたり悲しくて三島・森田と我ら呼ぶなり

 

市ヶ谷の自衛隊駐屯地に蹶起を促し割腹自決した三島由紀夫と森田必勝への追悼歌である。慷慨調というべきだろうか。漢語を意識した気概の歌は、最近はほんとうに見かけなくなったし、村上独自のものである。

今日の一首に揚げたのは、戦中派ならではの悔いの表出である。「穢汚」は「わいお」、戦後の日本は、まさに汚穢と呼ぶしかない。海軍兵として死ぬべき身を生きながらえて、この穢汚の世に生きる。それも敗残の身にはふさわしいではないか。自虐の心理は、その悲劇的な最後へとつながるものであったのかもしれない。村上は、1975(昭和50)年3月29日、日本刀に右頸動脈を断ち、自刃。

その年の5月「磁場」が村上一郎追悼特集号を刊行、また10月「無名鬼」が桶谷秀昭によって村上一郎追悼号を編集、これらの追悼号に私は村上の存在を知り、深く日本の文学や思想に関心を持つきっけになった。文学がこの現代に一身一命を賭けるに足るものであることを知った。ちなみに「磁場」の村上追悼号は若き日の田村雅之さんの編集である。