輪郭があいまいとなりあぶら身の溶けゆくものを女(をみな)とぞいふ

上田三四二『遊行』(1982年)

「女(をみな)」。いっぱん的な〈女性〉よりもっと肉感的な〈女体〉を詠んでいる。
読んで、誰かの手が肌に触れたような、すこし不思議な感覚になった。
男が視覚的に女のからだを詠んだ歌はいくつか知っているけれど、このような感じをうけることはあまりない。

男根はさびしき魚と思ふとき障子に白き夜半の月かげ  高野公彦

昨日の魚村さんの愛唱歌(?)に底流する男根への哀感と背中あわせに、男には女のからだへの憧れがあるのだろう。そしてもちろん、女にも男への憧れがある。
おたがい知り得ない性への憧れ。それらは美化されやすい。
しかし、この歌では美しさだけではない女のからだの〈におい〉のようなものを作者は感じとっている。だからぞくぞくしてしまうのだ。

「あぶら身の溶けゆくもの」。まずこの「あぶら身」がいい。脂肪ではない。脂肪より視覚的、肉感的である。それは作者が医師であったことを識れば、すこし納得がいく。
しかし、もっとおどろくのは、たんに「あぶら身」をまとったものというのではなく、「溶けゆく」という表現したところだ。
女のからだを眺めながら、女そのものを射抜くような鋭さ。
力ある視線である。

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