置時計よりも静かに父がいる春のみぞれのふるゆうまぐれ

 藤島秀憲『すずめ』(2013)

 

砂子屋書房のホームページで「月のコラム」を担当している藤島秀憲さんを取り上げたい。『すずめ』は今年度、芸術選奨新人賞と、第19回寺山修司短歌賞を受賞した。

 

冒頭の一首を読むと私は自分の祖父のことを思い出す。夏休みや冬休みに祖父の家で過ごしながら自分の親よりもよく祖父のことを観察していた。朝食のメニューや昼寝の時間、好きなテレビや惚け防止のためにしているパズルなど、私が世話をするわけではなかったが、そばにいてずっと眺めていた。祖父の部屋には長寿のお守りや置物などがいろいろと飾られ、そのなかに静かに何の抵抗もなく坐っている祖父が物哀しかった。「置時計より静かに父がいる」という上の句に私は祖父のあの気配を思い出すことが出来る。

 

ふくろうのように目を閉じ目を開き父眺めおりテレビ将棋を

年齢差日に日に開いてゆく感じ父の歩幅に合わせて歩く

 

前歌集『二丁目通信』にもこのような歌がある。一首目は表情を失っているような父の顔が浮かぶ。おもしろくて将棋を見ているのではなくテレビの画面をただ眺めているのだ。二首目はなるほどと思った。数字の上での親子の年齢差は親の年の老い方によってだんだん関係がなくなって来る。認知症の父の世話をしながら日毎に弱っていく父を上の句でうまく表している。

 

障子の穴も半年ほど経れば障子の穴と気づかなくなる

 

父の歌以外ではこんな歌も『すずめ』にはあった。日常でよくあるようなことだ。最初は気になっていた障子の穴も毎日見慣れてしまうと、景色の中に溶け込んで見えなくなる。この歌から考えると、障子の穴のようなものが毎日の生活のなかにいくつもある。見えているけれど見えてないもの。見ないようにしているうちに見えなくなってしまったもの・・。ふと辺りを見回してしまった。