何ひとつたくはへ持たぬ鳥の群身ひとつにて北へ飛び立つ

志垣澄幸『東籬』(2011)

 

なるほどと読み、さらにはっとさせられた一首。いろいろな蓄えをもっていないと生きて行けない人の姿が、身ひとつで飛んでいく鳥によって浮彫にされている。命ひとつだけをたよりに遠い地へ旅立つ生き物に哀しさと清しさを感じる。

 

また生き物の歌にはこんな一首もある。

 

病むやうな淡き日ざしに照る草を牛はぬれたる舌出して食む

 

弱い日射しのなかに草を食べている牛たちが見える。その日射しの中に舌が光って見えたのを作者は捉えた。「ぬれたる舌」にまぎれもない静かな生を感じる。

 

あとがきに志垣は「やがてくる一日一日が未知の体験であり、それだけに新鮮な発見もある。」と歌を作る時の心を書いている。私たちはわかっていても一日一日の新鮮さを忘れがちである。志垣のように意識して感じることの大切さを改めて思った。

 

ほそぼそと生きながらへて伏し待ちの月夜こきこきと桃の缶切る

衰ふる肉体(ししむら)に心おどろけり老とは事実を認めゆくもの

 

自身の老いというテーマもこの歌集にはある。一首目は「こきこき」というオノマトペが初句の「ほそぼそ」に呼応していて、老いの不安を感じながら生きる作者が、夜に神妙に桃の缶を開けている。手元の様子がよくみえてきて慎ましやかな感じがする。二首目は下の句が印象的だ。「事実を認めゆくもの」は自分の身体の変化を自分に認めさせている。心と身体がずれているようであり、それを何度も認めることにより老いは進んでいくのだろう。

 

迂闊だつた 人生つてまことにみじかくてたつぷり目薬さしてゐる朝

 

こんな朝が誰にでもやってくる。『迂闊だつた』という入り方にどきっとする。

 

『東籬』は陶淵明の「飲酒」の中の言葉。のんびりとした田舎暮らしを詠んだ代表的な詩である。