あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ

昭和天皇『おほうなばら』(1990年)

 

天皇の歌をとりあげるのは、大きな躊躇をおぼえる。戦争責任の問題が、誰もが納得する形で収束していないからだが、一人の歌人として昭和天皇を捉えることがあってもいいだろう。プロの歌人では、もちろんないが、天皇は神主の家系であるとともに歌の家の主でもある。実際、昭和天皇は生涯に一万首(四万首とも)ほどの歌をつくり、発表されたものはそのほんの一部、それでも千首に近い歌が公表されている。

昭和天皇は、熱心に短歌をつくった。それが生涯一万首という数になる。明治天皇(九万首)には及ばぬものの、この数は相当なものだ。天皇の発言は政治力を持つためか、決められたことしか言わない。そのぶん短歌は、たいせつな表現手段でもあった。昭和天皇の短歌が、すべて公開されると、昭和史の謎が解けるのではないだろうか。それほどに昭和天皇は熱心に短歌をつくった。

岡野弘彦は、御用掛として天皇の歌の相談を受けていた。私が先生の研究室の電話番をしていた頃、当時侍従長だった徳川義寛氏が、たびたび部屋を訪れた。何度かは大学の応接室へお連れしたが、そのまま研究室の窮屈な椅子に、先生が講義からもどるのを待たれていたことがある。天皇の短歌についての相談のためである。徳川氏が天皇の歌を写したメモを持参して、それに先生が目をとおす。そういう作業をされていたようだ。それはたびたびに渡った。

うす暗い研究室にうずくまるように椅子に腰かけて身じろぎもしない徳川氏の小柄な黒い塊のような姿を私は忘れることができない。

ここに選んだ一首は、昭和天皇のほぼ最後の歌である。

「あかげら」は、啄木鳥。雑草という草はないと言った昭和天皇だ。正確に固有名に歌う。那須の別邸において作ったというから、あかげらの存在は確認済みであったのだろう。「あさまだき」は、朝、まだ夜が明けきらない時間、古語に近い。そして四句から五句への展開となだらかな調べ。いい歌だ。

精神医学に携わる中井久夫は、この歌に「死の受容」を認める(「『昭和』を送る」)。「こころの寄りどころとしていた重要な対象から心理的に撤収してゆく」、この歌では、「鳥が飛び去ったあとの寂しい空白」――そこに「死の受容」を認めるという。なるほどと思う。

さらに、もう一首。

 

夏たけて堀のはちすの花みつつほとけのをしへおもふ朝かな

 

昭和天皇は最後の夏、「ほとけのをしへ」に心ひかれていたと中井は読み、この二首に「世を去る心の準備の成熟がある」と説いた。もとより「陛下がさっさとそんな心境に達せられるのは、ずるい」と思う人が多いことは承知してである。天皇の心境は別として、昭和天皇はもっと苦しまねばならない、「昭和の鎮魂は、まだ済んでいない」という思いが多くの人にあることはたしかである。しかし、中井久夫はこのエッセイの最後に、「昭和天皇は安んじてお休みになられてよいであろう。日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。」「天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。われわれはアジアに対して『昭和天皇』である。問題は常にわれわれに帰る。」と結ぶ。たいせつなエッセイである。