霞立つながき春日に子供らと手毬つきつつこの日暮らしつ

良寛『良寛歌集』(吉野秀雄校注・東洋文庫版1992年)

 

良寛(1758年~1831年)の短歌のなかでももっともよく知られた一首である。子どもたちと毬つき遊びをする良寛さんの印象は、ほとんどこの歌に拠っている。越後の自然と人にかこまれて、その風土と合一するように生活し、良寛は詩歌を生みだした。

手毬・はじき・草相撲・かくれんぼなどをして子どもたちと遊ぶ歌は数多い。この一首は、なかでもほのぼのと温かく、おだやかな良さがあり、良寛という人物の姿が髣髴する。

それは、この時代の短歌としては、きわめて独特なものであった。近世和歌は、古今集以来の歌い方が、仮構を題詠の極限までに進め、詩的活性よりも、言葉の組み合わせの妙を競う社交に重きが置かれるようになっている。そうした中で、この良寛や橘曙覧(1812年~1868年)が、生活をリアルに歌うようになることによって、近代への短歌の動きを胎動させた。

良寛は道元や荘子に学び、その影響が強いが、万葉集を読み、国学者とのかかわりも持つ。曙覧も国学に傾倒する。近世国学が、あたらしい短歌を産み出す母胎であったと私は考えているが、論を詰めるには至っていない。

良寛の創作は短歌(和歌)のみではない。漢詩があり、長歌がある。良寛としては、漢詩が本領だと考えていたと思う。手毬つきのテーマの漢詩をあげてみる。

 

裙子(くんす)は短く褊衫(へんさん)は長し

騰々(とうとう)兀々(ごつごつ)只麼(しも)に過ぐ

陌上(はくじょう)の児童忽ち我を見

手を拍ちて斉しく唱う放毬(ほうきゅう)の歌    (「騰々」)

 

袴は短く、上衣は長く、ぶらぶら、ごろごろ、日々過ぎる。路上の子どもらは、私をみつけると、手拍子を打って、毬つきの歌を合唱する。

大意は、こんなところだろう。短歌と比較するとその違いは歴然とする。情景や気持ちの起伏、服装や歩く姿が漢詩の方がずっと多くを表現している。

さらに長歌にも、同じような場面を歌っている。

 

霞たつ ながき春日に 飯(いい)乞ふと 里にいゆけば 里こども いまは春べと うち群れて み寺の門(かど)に 手毬つく 飯はこはずて そがなかに うちも交りぬ そのなかに 一二三四五六七(ひふみよいむな) 汝(な)はうたひ 吾(あ)はつき 吾はうたひ 汝はつき つきてうたひ 霞たつ ながき春日を 暮らしつるかも  (「手毬つき」)

 

このようにだ。これらは吉本隆明『良寛』に教えられたのだが、吉本はこの長歌に、明治初年の五七調の新体詩と変わりないものを見いだして、良寛の新しさを指摘している。たぶん、そうだろう。それぞれの詩型を良寛は自在に渡っていることも含めて、良寛の詩歌についての再考は意味あることと思う。