常通る汽車の火の粉に焼けたりし露草の花曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花

田中子之吉『現身』(1962)

 

作者は十六歳の時、佐藤佐太郎の「歩道」に入会。この歌集はそののちの十八年後に出版された第一歌集である。

汽車が走っていた時代にはよくある光景なのかもしれないが、私には新鮮な一首であった。露草の青と曼珠沙華の赤、色彩豊かであるが、それが汽車が通るたび火の粉に焼かれてしまう。線路沿いに咲いていて、焼かれても焼かれても毎年また花が咲くのだろう。どこか無残な感じもしてくる一首だ。

しかしこの歌集は他にもっと大きなテーマがある。

 

日曜の一日の(あひ)に常のごと君はセーラー服を着て(そば)にゐる

さりげなく汝のクラスに授業する今日仲人が行きてくるる日

平板の感じして幼き乳ふたつかかるいのちも(かな)しかるもの

 

作者は高校の教師をしていたが、ひそかにその生徒と恋愛関係にあった。人目を気にしながら会い、最後には高校を退職し少女と結婚することとなる。

一首目は、毎日学校で会っていても話せない二人が、ようやく日曜日に二人きりで会っているところ。「セーラー服」に初々しさがある。また二首目は少しドキドキする場面。二人の関係が気付かれないように授業をする作者。しかしもう結婚へと決意は固まり水面下でいろいろなことが動いているのだ。今よりもずっと結婚観が古い時代に、作者は周囲を説得し愛を貫いた。そこに驚かされてしまう。三首目はやっと自分の妻となった少女、まだ女性として充分に成熟していない身体を「平板の感じして」と詠んでいる。

『現身』にはドラマを見ているような純粋な恋愛のその後も詠まれている。辞職した作者は、老舗の酒屋を継ぐが、病の父と歩けない母、慣れない商いに心も疲弊して行き、妻との関係もそれにつれて変わっていってしまう。

 

腰たたぬ母を背負ひて家出づる父の柩に釘を打たしむ

店内を掃きゐる吾を道路よりバス待つ人らみな見て立てり

客来れば店に出て来て争ひし妻とも言葉交はすことになる

ゆきずりの愛なれば断たん追憶と妻子ら眠る傍に居り

 

一首目は父の死の場面で、歩けない母を背負って柩に釘を打たせに行こうとしている。壮絶な哀しさがある。二首目は朝だろうか、酒屋で働く作者の様子。店は道路沿いにあるのだろう。毎朝バスを待つ人々に見られていることに、どことなく苦痛を感じている。三首目は商いをしている家ならよくある状況だろう。どんなに夫婦が争っていても客の前では愛想よく仲良くしなければならない。

四首目は妻以外のひとと何かがあった。妻子の眠る傍らで、自らを省みている作者がいる。

『現身』は私小説のような一冊だが、一人の人間の生き様が、言葉で飾ることなく真摯に胸に伝わってくる。(この歌集は、「第一歌集文庫」として今年文庫化され、再読することができる。)