貴重な終身刑の残り日を素直に生きむひと日ひと日を

郷隼人『獄中からの手紙』(2014年)

*貴重に「プレシャス」のルビ。

 

朝日歌壇には、郷隼人の投稿歌がたびたび選ばれている。その郷隼人の『獄中からの手紙』(幻冬舎)を読んだ。

郷隼人のプロフィールには、鹿児島県出身、若くして渡米。1985年、殺人及び殺人未遂の2件の罪で有罪を宣告され、以後ライファー(LIFER終身服役囚)として28年間、カリフォルニア州立刑務所で服役、現在ソルダッド・プリズンに在監中とある。

この珍しさが、郷の歌を評判にし、二冊の著書を持つことに繋がる。日本の死刑囚が外部との関係をほとんど断たれるのと違って、アメリカの終身服役囚には、ある程度の人権が認められ、このような自由がある。郷が、ホームレスの公田のことを訊かれ、アメリカの獄中の生活が恵まれていることを紹介する文章が、『獄中からの手紙』に収められているが、短歌に出合うことで郷が「人生を生き直している」という三山喬(『ホームレス歌人のいた冬』の著者)の指摘があるように、真摯に短歌に向かい、半生を省みる姿勢は多くの共感を得るのであろう。

「日本の娑婆の人々にはあまり知られていないネガティブなサイド、即ち、獄塀の内側で日常起こっている汚い側面と悪い刑務官、そして悪い囚人たち」、「僕にしか書けないストーリー」をこの『獄中からの手紙』(幻冬舎)で郷は描いた。

たしかに興味深い話題ばかりだが、どうだろう。そこに驕りのようなものを感ずるのは、私だけだろうか。たしかに郷が紹介する「ストリップ・サーチ(全裸身体検査)」の手順などを読むと獄中の過酷な現実を知らされるが、そうした扱いの非道は承知しながら、それでもかわいそうな私を見よという驕りを覚えぬでもない。今日の一首には、その感じは薄いものの時に死刑囚であることを特権化するかのような嫌な感じがすることも事実である。とはいえ、それを含めて郷隼人の短歌だということであろう。

短歌は、たしかに巧みになっている。

 

夥(おびただ)しき囚人の群れ獄庭に蠢いており毛虱(けじらみ)のごとく

緊張の漲(みなぎ)る所内の雰囲気よ看守殺害されたる朝は

人類のいない地球を想像し夜中に食べるカップラーメン

稲妻の如く急降下(ダイブ)し野兎を捕らえ翔び去る隼(ファルコン)の美技

 

という具合だ。上手になっている。この先はどうなって行くのだろうか。期待をするとともに短歌を作り始めた頃の拙いけれども、歌わねばならないという気持ちの溢れた作品を懐かしく思う。

 

老い母が独力で書きし封筒の歪んだ英字に感極まりぬ

諄々と生きた証を刻む為詠まねばならぬ残されし日々を

人間の生命奪いし吾が手なりその手が今は短歌綴りいる

 

どうだろう。これは三山が郷に宛てた質問状に紹介されている横浜のドヤ街で行われた「識字学校」で大沢敏郎(故人)が教材に採り上げた12首の中の歌だ。今日の一首もこの中に含まれている。

これらの歌には、たしかに「ことば=自己表現=を持たなかったゆえに、人生の重要な部分を失ってきた人」が、「表現する作業を通じて改めて自分を見つめ直すことで、人生そのものを取り戻してゆく」切実さがある。郷隼人は「短歌という自己表現を得たことで、」「人生を生き直している」のだ。これは「識字教室」の大沢氏の言葉だが、得心が行く。短歌がほんとうに必要とされることは、今も確かにあるのだ。それだけにこの本のいささかの驕りのようなものが気になってならない。