狂うことなくなりてより時計への愛着もまた薄れゆきしか

松村正直『午前3時を過ぎて』(2014)

 

電波時計のことだろうか。誤差を自動修正する機能があり時刻を狂わずに表示してくれる。時計が正確な方が使う者としては助かるはずである。しかし少しずつ狂う時計の方が、較べてみれば愛着があったことに作者は気付く。

 

狂いやすい時計は螺子をまわして合わせたり、時々気にかけてやらないと使う方も困る。狂わない時計は正確に動いて当たり前だからもうこちらの何の手助けもいらないのだ。この時計と人間の関係が現代のさまざまなことの関係性へも関連して歌が読めると思うのだ。

 

わが腕と妻の脚とは絡まって取り出されたり洗濯槽より

一日限りの民族衣装を身につけて学びを()えし者はにぎわう

われは地に打ち込まれたり肩車するまっすぐな背骨となって

 

またこのような歌もある。一首目は上句で実物の夫婦のことかと思い、少しどきっとする。下句まで読めはそれは今から干される洗濯物だとわかる。二首目は何のことだろうと思ったが卒業式に袴などの和服を着ている様子ととった。「民族衣装」と言われれば、確かにそれは日本の「民族衣装」である。しかもそれは日常では着ない「一日限り」のものである。

三首目も面白い。我が子を肩車している歌である。普通、このような歌は親子の愛情のようなもので終わりそうなのだが、松村の場合はちがう。肩にずっしりと乗った子供の重さで身体が釘か何かのように地にめりこんでいく感覚をうまく表している。

日常の見過ごしそうな場面をぱっと切り取り、違う方向から見た捉え方を表す手法は鮮やかである。それが、面白がっているのではなく、かえって生きていくことの寂しさを連れて来るところにこの作者の味わいがある。