夕がたの日影(ひかげ)うつくしき若草(わかくさ)野(の)体(からだ)ひかりて飛び立つ蛙等(かはづら)

結城哀草果『山麓』(1929)

 

そろそろ私の家のまわりの田畑でも蛙が鳴き始めていて、季節が変わっていくのを感じている。作者は夕ぐれの日があたる野を歩いている。一日の労働を終えてほっとしている頃であろう。ときどき跳ねる蛙の体が光ってあちこちに見えている。牧歌的な一首である。

作者の結城哀草果は山形出身のアララギ歌人。二十二歳のときに、十一歳上の斎藤茂吉に入門、三十四歳ですでにアララギの選者となっている。この第一歌集『山麓』は昭和四年、三十七歳のときに出版された。

 

歌集の殆どが農耕の歌である。機械を使わずに行う稲作と養蚕、冬には藁仕事、米搗きなど休む暇もない作業の間、歌を作り本を読んでいる生活が詠まれている。自然に左右される暮らし、仕事であるが、それらを含めて結城の歌には、常に生き生きと生活を営んでいる姿がある。

 

ぐんぐんと田打(たうち)をしたれば顳顬(こめかみ)非常(ひじやう)に早く動きけるかも

かくばかり荒れし()(ぐさ)吾妹子(わぎもこ)と二人し取ればうれしかりけり

ゆふぐれてただにひもじく帰り来て(めし)(くら)ふはたのしかりけり

 

一首目は哀草果の代表歌。田を打っている自分の肉体の様子を細かく詠み、エネルギッシュである。労働歌でありながら繊細さがある。二首目は妻と農作業をしている様子。素直な妻への気持ちがある。三首目もまた一日の労働のつらさ、ひもじい暮らしの様子があるがその後の食事できることの喜びが、幼児のように素直に表されていて読んでいてほっとさせられる。

 

夕照雨(ゆふでりあめ)はらはら光り()のなかにわが(さと)いれて虹たちにけり

 

美しい景色が見えて来る。「はらはら光り」弱い雨が日暮れに降っている。虹が出ていると表すのではなく、虹の輪の中に自分の里が入っている。大きくゆったりとして、眩しさもある。そこに作者の土地への愛情がたっぷりとある。哀草果は都会へでることなく生涯を山形の村で暮らし詠み続けたという。