房に入り我れの虜のこおろぎよ澄みたる音色さむざむとして

郷隼人『LONESOME隼人』(2004年)

蝉の声がしだいに衰えるころ、気がつくと蟋蟀やきりぎりすなど秋の虫の声が聞こえはじめる。
俳句で、ただ虫といえば、声のうつくしい秋の虫をさす。
昔は、蟋蟀ときりぎりすは、それぞれ逆の虫をさしていた。
  むざんやな甲の下のきりぎりす
という芭蕉の句に詠まれているのは、今でいう蟋蟀である。
日本人ほど虫の音を愛し、したしみをもって聴く国民はいない。

まいにち何気なく歩いている道に、たくさんの虫が鳴いていることに気づくことがある。
虫の音に耳をかたむけるのは、こころのしずかなとき。
そして、虫の音はいっそう、こころをしずかにしてくれる。

作者は若くしてアメリカにわたり、1984年に殺人の罪で収監されて以後、はじめロサンゼルスの日系紙の文芸欄に、つづいて朝日新聞の歌壇に投稿をつづけて注目をあつめた。
島田修二が寄せた解説によると、服役の成績によっては出所が期待できる日本の無期懲役に対して、アメリカのそれは出所が困難であるかわり、房内の自由度はいくらか高いという。
歌集には、独房でグッピーを飼う歌もあった。

どこからか房に迷い込んだあわれな蟋蟀は、囚人である自分にとらえられ虜になっている。
自分がはなしてやれば、小さな虫は野にもどれるかも知れないが、自分はおそらく一生この異国の監獄を出ることができない。
こおろぎに自分の身をかさねた作者のこころは痛切であるが、一首には俳諧に通じるユーモアもある。そういえば、上掲の芭蕉の句に通うところもある。
そして作者は自由の身であった頃にもまして、自分が日本人であることをしみじみと感じるのだ。
歌集にはこんな歌もある。
  「FUJI(フジ)」というラベルがどうも気になりぬ獄中ランチのアメリカ産林檎(アップル)

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