老眼鏡掛くれば延びる生命線このさびしさに慣れねばならぬ

宮原望子『哀蚊』(1992)

 

老眼鏡を掛け始めた年齢の歌だろう。じっくりと自分の手を見たら生命線に続きがあったのを見つけた。「このさびしさに慣れねばならぬ」とはこのように老いを確認するようなことが、これからどんどん起こることに対する構えでもある。けれど一首はそれほど深刻になっていなくて「延びる生命線」という所に得をした感じがあるのも面白い。

 

追はざれど逃げ水逃げてしまひたる春真つ昼間 しんとさびしき

さびしくて机の面のひろがるといふ歌に逢ふ秋の灯の下

孤独感さへも持たざる孤独あり貼絵のやうな春の満月

 

寂しい歌を集めてみた。寂しさはというのはとりとめもない感情だが、宮原の歌の場合、とりとめのなさで収束させず、寂しいという感覚を鮮やかに表現しようとしている。

 

一首目は近づくと遠のいて見える逃げ水がうまく表されている。別に追っているわけでもないのに自分のもとからどんどん離れて行く逃げ水、そのもどかしさに寂しさがある。二首目は他人の歌の表現を詠んでいるが、「さびしくて机の面のひろがる」という感覚はとてもわかる気がする。そして宮原もまたその感覚のなかにいる。

三首目の「孤独感さへも持たざる孤独」とはどんな孤独だろう。孤独と自覚さえできないような、薄ら寒い究極の孤独である気がする。下句も比喩がとてもきいていて、月さえも借りてきた物のように空に丸くある。

 

()れかはりしわれならなくにUFOを見しかの日より友みな(とほ)

 

1989年の冬の明け方、宮原はUFOを見たらしい。その一連が九首、連作としてこの歌集にある。これはその中の一首。目撃の信憑性を高めている一首だ。UFOを見て別の人間に生まれ変わった自分ではないのにその冬の日より友が皆遠く感じるのである。不思議さと面白さと寂しさが入り混じったような一首。