みちのべに埃(ほこり)をあびてしげる草秋は穂に出(で)て名はあるものを

岡麓『庭苔』(1926)

 

岡麓は明治十年東京生まれ。大正五年から「アララギ」に歌を発表し、後に選者となった。この『庭苔』は第一歌集である。

冒頭の歌は少し地味であるが好きな歌だ。道端に砂埃をかぶって茂っている草たち。秋には穂が出て何の草であるか名がわかるのだが・・と傍らの雑草にこころを寄せている。この歌の一つ前に

 

みちのべの相撲(すまう)(とり)(ぐさ)猫じやらしわれにしたしき草のしげりや

 

という歌がある。作者は何の草であるかはだいたいわかっているのだ。「相撲取草」はメヒシバやオヒシバのような草で、茎を交差し合って互いに引っ張り、ちぎれなかった方が勝ちという子供の遊びからついた呼び名である。「猫じやらし」はエノコログサのことでどちらの草も親しみ深い名で詠んで子どもの頃を思い出しているような一首。

 

わが父のつとめたりとふこの園に来りてぞ見る山樝子の花

 

こまやかに植物を季節ごとに詠んだ麓であるが、父を詠んだこんな歌もある。この園というのは小石川植物園で、もともと岡麓の家は幕府の医官であった。麓の父は早くに亡くなったが漢方医を勤めたとという。小石川植物園の薬草園で麓の父は仕事をしていたのだろう。サンザシは初夏に花を咲かせその実にはいろいろな薬効がある。

 

冬の日に枯れぬ(よもぎ)の葉をむしり何かさびしき理由(ゆゑ)なくさびし

 

棕櫚の葉の風音(かざおと)きけりむかしわがさびしと()ひてききし風音

 

じっくりと写生をして詠む植物の歌もあればこれらのように気分とともに淡く詠まれている歌もある。一首目の下の句は「さびし」のリフレインがあり、理由はないけれども自分を襲ってくる寂しさを感じている。冷たい空気のなかに香る蓬や、作者の裡にひろがる漠然とした寂寥感が伝わる。

二首目の棕櫚はヤシの木に似た木であるが、越してきた家の庭に棕櫚の木があり、作者は子どもの頃を思い出したのだろう。幼い頃に聞いたさびしいその風音。それを懐かしく聞きつつ、寂しさは同じように今も心のなかにあった。

『庭苔』という歌集名も地味でどこか寂しさがある。あとがきによれば、岡麓が自分の住居より旅など遠くへ踏みだしたことがなく、庭土の苔の色に親しんでいた過去からつけたという。『庭苔』は少し遅めの第一歌集であったがここから次へと踏み出し、麓の人生が詠まれて行く。