仄白く鉄路の死体雨しぶく一九四九年七月五日深夜

大野誠夫『行春館雑唱』(1954年)

 

下山事件に興味を示す人も減っているだろう。今から65年前、1949(昭和24)年7月5日、国鉄(今のJR)初代総裁に就任したばかりの下山定則は、日本橋三越に入店したまま消息を絶った。翌朝、常磐線綾瀬駅付近で轢死体で発見される。当時、国鉄職員大量整理の最中、労働組合の反対闘争が激化しており、下山事件以後、三鷹事件(7月15日)、松川事件(8月17日)と国鉄に関する事故が相次いで起こっている。下山総裁の死因については他殺、自殺両説が対立、やがて決め手なく捜査は打ち切られた。

松本清張は『日本の黒い霧』において、アメリカ占領下に起こった一連の国際的謀略、謀殺、疑獄事件の真相を暴こうとした。「下山国鉄総裁謀殺論」は、その最初の謎解きであった。以後、この未解決事件をめぐって『謀殺下山事件』(矢田喜美雄)、諸永祐司『葬られた夏』、森達也『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝『下山事件―最後の証言』が、アメリカ軍内の防諜機関の関与、元陸軍軍属が設立した組織、また亜細亜産業関係者による他殺を主張している。いまだ謎多く、真相解明が待たれるが、『日本の黒い霧』を読んで以来、下山事件と聞くとついつい本を買い、週刊誌をあさってしまう。

謎解きは、今もこのように追及が続いているのだが、大野誠夫は事件直後に短歌によってこの事件を捉えようとした。『行春館雑唱』(1954年)に収録された「深夜」一連9首である。その1首目が、今日のこの年月日の入った歌である。短歌に年月日を入れることは、めずらしいだろう。この日時は、それほどにインパクトがあったにちがいない。というよりインパクトを与える年月日に、作者が強調したかったのだ。上句は、新聞報道からの想像だろうが、事件現場の状況が的確に、そして詩的に捉えられ、端的な一首と言えるだろう。

 

底辺を流るる荒き不安なるまた苦しみの深夜ともいふ

霧のごとき雨は帽子に曇りふる解けぬ疑惑のままに暮れゆく

ただ時の解明を待つばかりにてひとり夕刊を畳みて眠る

 

一連には、このような市井に生きる男のごくふつうであろう反応が歌われている。歌集巻末「五年間――或る作品解説」という自註のような文章が収められている。そこに、「この期間、民主的なものへの圧迫がやうやく加はり、戦後急激に進出した左翼は衰退を余儀なくされ、下山事件その他一連の容易には解明できぬ事件が起こつた。これらの奇怪な事件に対して、私は興味以上の関心を持つたが、作品としては数が少ない」というようなことが述べられている。

大野は当時、戦後の混乱した社会の中で、離婚、転職などもあり、貧しく、また働くものとして「左翼」へのシンパシーにも強い気持ちがあったようだ。それが、この一連を作らせた。何か得体の知れない力が、ふつうに生きようとする人びとを圧迫する。そうした時代への反発が大野にはあった。今またこの国は権力の秘密を守り、軍備が戦争を可能にする時代へ動こうとしている。社会の出来事を注意深く見つづけている必要がある時代だ。年月日を歌いこまねばならぬ事件や事故が起こらぬことを祈る。