たよりなく白いお前が本当に褐色のあの蝉になるのか

荒木る美『茎を抱く』(2014)

 

この歌をふくむ一連は蝉の羽化の様子を詠んだものだ。私も一度だけ見たことがあるが、まずこの歌のように色に驚いた。私が見たのは油蝉だったが成虫とはまったくちがうさみどりのような白さで、暗さの中で発光しているように見えた。作者の驚きがそのまま詠まれている一首である。「たよりなく」はふにゃふにゃとしてまだ形もはっきりしない殻からでてきたばかりの幼虫を表している。羽化はまるで色白の幼い少年がたくましい男性になるようでもある。

 

カブトムシ死にても黒し夏の日と昆虫ゼリー多く残れり

カネタタキの音が漏れくる夕闇のどこかに空いた小さな穴から

この夏の上澄みのよう他の蝉にかさなるとおきつくつく法師

 

虫や蛙など生き物の歌が多く出て来るが、単に牧歌的な方へはいかず、生命そのものを見つめている静かな眼差しを感じた。一首目の「死にても黒し」に説得力がある。甲虫類は体の色が退色したりせず、死んでも生きている時のままの色である。夏が終わる前に弱くなって死んでしまったカブトムシ。餌としてやっていたゼリーが多く残っているのもリアルだ。

二首目のカネタタキは私はとてもすきな音色の虫で、本当に小さな鉦をたたいているようである。その音を夕闇のどこかに空いた穴から漏れているのだと表している。カネタタキのコオロギや鈴虫とちがい線の細い儚げな音色の感じが伝わる。

三首目は夏の終わりに鳴き始める法師蝉を詠んでいて、一斉に鳴いてうるさかった油蝉の暑苦しさとはちがう法師蝉の声を「上澄みのよう」と表している。法師蝉は一匹ずつ鳴いてその鳴き声も独特である。もうすぐ夏の暑さもひと段落つくような安堵も感じられる。

 

病む兄はすずめ鳴くさえよろこべりすでにこの世の人でなきごと

手を合わすそのてのひらの隙間にも生者のわれの時間(とき)は流れて

立ち上がり心の中で別れ告ぐ花と墓から目を離さずに

 

また、詳しいことは語られていないが、若くして亡くなった兄を通して見えて来る命というものを作者は常に考え詠んでいる。一首目は病床にいる頃の兄だろう。窓の外から聞こえるすずめの鳴き声、そんなことにさえ喜び生きていることを実感していたのかもしれない。しかしそこまで弱ってしまった兄が作者にはショックで、もうすでに亡き人のように感じてしまう。

二首目はそのような兄が亡くなってしまい墓参している歌。あわせた手のひらの隙間、そんなわずかな隙間にも景色が見え光りが見える。どんなに死者に手を合わせても自分は生きていて、そこに生きて行く時間がまざまざと流れている。三首目はお参りを終え離れていく時の歌。下の句が印象的である。目を離すことにより死者とのつながりが消えてしまいそうであり、いつまでも見つめているのだ。

この歌集は静かな歌集である。いつも暗がりの底をのぞいているように感情の起伏を抑えた作者がいる。生き物を思い死者を思う、そのバランスの中に作者はいるようである。