尾山篤二郎『さすらひ』(1913)
中公文庫の日本の詩歌のシリーズは、私が短歌を始める以前に買ったものであるが、いまだにひらいて読むことがある。歌がずらっと並んだ下段に、歌の解説や、その時々の様子などが補足してあり歌を理解しやすくなっている。巻末には詩人の肖像として各歌人の生涯や歌風が書かれてあり、尾山篤二郎は、太田水穂、前田夕暮らとともに第七巻に入っている。宮柊二、上田三四二が文章を書いている。
巻末の写真には尾山が松葉杖をついて和服姿で写っている。小さな写真をよく見ると草履の部分は片方しか写っていない。年譜には十五歳の時、右足の膝関節の結核が原因で大腿部より切断すとある。したがって『さすらひ』のこの一首はとても悲しく怖い歌である。十年前に切り落とした自分の脚を見たいと病院を再訪して看護婦に言っているのである。看護婦は言葉もなく笑うことしかできなかった。
ぎしりと肉を切るメスの音、芝草を踏めばけざやかにわがおもふこと
同じ一連にこのような一首もある。自分の脚が切られたその時をもう一度、自分のなかで直視しようとしているのか。残った方の左脚が芝草を踏む時はっきりと作者はそのときのことを頭に描いていて「ぎしり」という音がなまなましい。
しかしこういった尾山の歌風も第二歌集『明る妙』では大きく変わってくる。
わが乙女まことにふかく耀かにわくごはらみてひた肥えにけり
生ものゝ生の力のたふとさは今宵かもしる妻が腹うごく
さつきぞら日輪かゝりほがらかに生れのひとこゑ子はたてにけり
その双手秘密をこめてさゝぐるか嬰児はこぶしいまだひらかず
二十五歳で結婚し、妻の身ごもりと、翌年生まれた長男直樹のことを感情豊かに詠んでいる。一首目は妊娠してふっくらとしてきた妻を眩しいような視線で詠んでいる。また二首目は腹に手をあてて胎動を感じ、おなかのなかに育つ生命に感動している。三首目は産屋の外で子の産声を聞いている様子。上の句の空の様子も大らかで喜びにあふれている。四首目はぎゅっと手のひらを握り締めている愛らしい嬰児の様子がよく伝わってくる。その小さなこぶしのなかに秘密を握っているように詠んでいる。
箸おきてひとり酌するこの夕べいのちを洗ふごとくすずしき
かれ糸瓜ぶらりふらりと吹く風の手ぐさとなれるわが命かも
『雪客』より。最晩年のこのような作品にも心魅かれる。「威風堂々」「ひょうきん」「狷介」などという人間的印象が尾山にはあったというが、飄々として何にも揺るぎのないような作者がここに見える。二首とも命を詠んでいるが、一首目は解き放たれて涼やかな時間のなかに作者がいる。二首目は老いとともに死を意識しているが、風にゆれる糸瓜を見ていつの間に「手ぐさ」のように心もとなくなった命を感じている。