あと絶えて浅茅が末になりにけりたのめし宿の庭の白露

二条院讃岐『新古今和歌集』(1205年)

*浅茅に「あさじ」のルビ。

 

この歌を知ったのは、山本周五郎の小説によってである。このところ集中して周五郎作品を読み続けている。新潮文庫に50数冊、ようやく三分の一ほどを読み終えた。曲軒、へそ曲がり、つむじ曲りのあだ名を持つ山本周五郎の小説の滋味のような面白さに気づいたのは最近のことだ。単なる名医の物語のように思われている『赤ひげ診療所』も、小石川養生所の暗面が描かれ、人間の奥深さが滲むような小説だ。また、「ちくしょう谷」(『ちいさこべ』所収)は、差別の問題にも絡んで人間や社会の暗部を抉り出す。

戦前に『小説日本婦道記』によって直木賞が与えられることになったが、周五郎はそれを固辞する。それがいかにも山本周五郎らしいと言われる。『日本婦道記』は、女性にも「自分らしく生きる」「婦道」があるということで、何人かの女性の生き方をえがいた。『日本婦道記』には、収録されなかったが、女性のエピソードを素材にした短編はいくつかある。今日の一首の和歌も、そのような一人の女性の生き方を描く小説に見出したものだ。

「義経の女」(『あとのない仮名』所収)は、文庫本10ページもない、ごく短い小説である。「少女之友」1943(昭和18)年12月号に発表された。

千珠(せんじゅ)という仮名の女性が、主人公である。源義経の娘という設定である。伊豆に住まい、ある日、京の義姉からとどいた手紙に記されたこの歌に心ひかれた。

「いかにもはかなく寂しげな詠みぶり」、「口ずさんでいると、荒涼とした秋の野末に、たった独りゆき暮れたような、かなしい気持」になると主人公に「太息(といき)」をつかせている。

なるほど二条院讃岐のこの歌、「久恋」の題、長い憧れを歌い、訪れのない思い人を恋いつづけるつらさが滲む。人が通る跡も絶え、浅茅が末のように思いも絶えてしまわれた。あの人が来ると約束した私の家の庭には白露が置くばかり。「浅茅」は、愛情が浅く、変色するので心変わりをあらわし、「白露」に自身の涙を暗示する。訪れることのない恋人を、待ち続ける女性の行き暮れた心の内が、荒涼たる秋の荒野のように描かれている。

二条院讃岐は、かの鵺退治で有名な源頼政の娘である。頼政も、武人ながらすぐれた歌人であったことは、以前紹介した。その娘である讃岐も『新古今和歌集』に16首入選するほどの女性であった。

小説は、千珠がこの歌に心かなしく感傷に浸っているところへ、夫有綱が、河越太郎重頼が鎌倉方に討たれたことを知らせる。重頼は、源義経の舅にあたる。重頼の娘が義経の妻になり、その娘が千珠なのだ。義経は、すでに兄頼朝の勘気に触れて奥州衣川に討たれている。そして今は、その「伊予守ゆかり」、つまり義経縁者たちの掃討が始まっていたのだ。

千珠は、義経の娘、舅が討たれるならば、娘が討たれるのもそう遠くはない。夫である有綱は頼政の子の一人である。しばらく不安に過ごすうちに頼朝が、京から征夷大将軍として帰国する。有綱も迎えに出ると、一行に加わっているはずの兄広綱が行方不明になっている。重頼が討たれたことを聞いて、己が身に同じ定めが下ることを恐れて出奔したのだろう。小説の附記には「のちに醍醐寺へはいって出家」とある。

そうした情勢下、有綱は戦闘の準備に入っていた。鎌倉から、「千珠をさしだすように」という使者が来たのだ。そこで、千珠が言う。「わたくしを鎌倉へやってくれ」と。

そして、頼朝がなぜ義経を討滅し、また平氏を滅ぼし、木曾義仲を葬ったかを諄々と説く。それは「新しい質実な政治をおこない、乱れた天下を泰平にするため」であったこと、平氏も、木曾義仲も、また義経も、京の公卿たちとのかかわりを持つ中でそれを忘れ、華美に変わって行った。だから頼朝は、滅ぼさざるを得なかったのだ。

重頼を討ったのは、義経ゆかりで反旗をあげることを未然に「禍いの根を刈る」ことに他ならない。そして千珠は、私を鎌倉へ差し出してくれと言う。そこに再度、讃岐の歌が持ち出される。讃岐は、一族である有綱へ意を汲んでほしいと考えてこの歌を送ってきたのだと千珠は言うのである。千珠の解釈は、こうだ。

「兄ぎみ駿河守(広綱)さまはおゆくえ知れず、今またあなたさまが千珠の縁にひかされて、鎌倉へ弓をひかれるようなことになりましては、世の中を騒がす罪も大きく、故三位(頼政)さまのお血筋も絶えて、まったく浅茅が末のあさましい終わりとなってしまいます」

う~む、とうなるような解釈ではあるが、なるほどこの場での夫への説得には大きな効果があったはずだ。「有綱は眼にいっぱい涙をため、やさしく妻を見まもりながら」、妻を迎えの輿に乗せて鎌倉へと送ったことになっている。

牽強付会めいたところもあるが、この歌を中心に展開する筋立ては、まさに歌物語、千珠の苦衷、そして決意の美しさが心に残る。和歌そのものとは外れているが、こうした使い方もあるということか。

歌自体は、新古今時代のものだから、当然ながら本歌があり、歌合せの中の題詠でもある。興味を持たれた方は、『新古今和歌集』そのものに当たってみてください。