わが洞のくらき虚空をかそかなるひかりとなりて舞ふ雪の花

石牟礼道子『海と空のあいだに』(1989年)

*洞に「うろ」のルビ。

 

水俣病の患者や家族の苦しみを壮絶に、そして清冽にえがいた『苦海浄土』は、名作というばかりでなく、現代を代表する世界文学の一冊と言うべきだろう。ノーベル賞の価値などを認めようとは思わないが、村上春樹に与えられるならば、その前に石牟礼道子に与えられなければ納得しがたい。村上春樹の新作が出れば、その日のうちに書店に買い求めて読みはじめる私だが、世界に通じる言葉の芸術の価値として、「いのち」の文学としては、石牟礼の紡ぐ文章には及ばないと思う。

その石牟礼道子が、『苦海浄土』の世界に至り着く前に、短歌に力を尽していた時期があった。水俣という地方の町に住む主婦としては、短歌くらいしか文学へのかかわりを持てなかったのであろう。そこで才を認められることから、やがて谷川雁を知り、さらに水俣病とのかかわりを経て、石牟礼の世界は深まってゆくことになる。

短歌は、石牟礼道子の文学の初心であったわけだが、『苦海浄土』以後の驚くべき作品とは違って、正直これはというほどのものではなかった。しかし、なるほど石牟礼が、何か表現をせずにはいられない魂をかかえていたことは了解できる。それが『海と空のあいだに』(葦書房)一冊にまとめられている。石牟礼の初期の文学活動が、ここに収録されている。

 

この秋にいよよ死ぬべしと思ふとき十九の命いとしくてならぬ

人間の子なりよこれはこのわれの子なりといふよ眸をとぢておもふ

馬が引くわだちの音のひとしきり軋む夕べを雲垂りこもる

うつくしく狂ふなどなし蓬髪に虱わかせて祖母は死にたり

 

一首目は、戦争末期の歌だろう。1927(昭和2)年生まれの石牟礼、終戦時数えならば「十九」である。戦中派なのだ。二首目は一人子の誕生である。生や死、そして人間の狂に敏感に反応する石牟礼が存在する。

 

墓碑銘のなき死つぎつぎよみがへる海へきざはしふかき月かげ

山の上を一夜わたりゆく風ありぬよりそひながき樹々の声かも

いちまいのまなこあるゆゑうつしをりひとの死にゆくまでの惨苦を

 

これらは水俣病とのかかわりを持つ歌かもしれない。ただ、短歌は、あの水俣の風土と人間を呑みこんで痛烈悲惨な水俣病の全体像を描きだすことは不可能だ。そういう意識が、石牟礼が短歌から脱け出すことにつながったのだろうか。そしてあの『苦海浄土』の巫女の言葉ごとき表現へ。

掲出のこの短歌は、歌集の後記にあたる「あらあら覚え」の最後に記された一首である。決して上手なものではない。「洞(ほら)」、「くらき」、「虚空」とほぼ同義に思われる語彙が並び、歌われたイメージも類型的なところがある。それでも自分の中にあるなんとも名状しがたいもやもやの存在は疑いようもない。それが、まだイメージとしてしか捉えられていない。そのような歌である。

石牟礼道子の短歌の師である蒲池正紀の言葉として、「あなたの歌には、猛獣のようなものがひそんでいるから、これをうまくとりおさえて、檻に入れるがよい」と言われたと「あらあら覚え」にある。この「猛獣」をつかまえようとした歌が、この一首ではないだろうか。美しすぎるところがあるが、この「わが洞のくらき虚空」は、石牟礼の表現活動を衝き動かして『苦海浄土』へ繋がってゆくのだろう。

石牟礼道子のもっとも近くでその活動を支えてきた渡辺京二が指摘していることだが、「彼女は少女時代文学少女ではなかった、西洋や日本の近代文学もほとんど読まなかった」(渡辺京二『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』弦書房・2013年)という。「規成の制度に強く束縛」されなかった。「だからこそほかに類例のない独特な文学を創り上げられた」のである。石牟礼には、短歌は縛りが大きすぎたのかもしれない。