臼歯ほどの消しゴムを取りに少年は小教室に戻りて来たり

楠誓英『青昏抄』(2014)

 

高校生になったばかりの娘が、クラスにいる友達のことをあれこれと毎日話すのを聞いている。筆箱のなかに昆虫のフィギュアをいつも入れている男子生徒がいるという。「これがないと僕は生きていけない」のだそうだ。思春期は小さな拘りが大切で、それにつかまって生きているような所がある。物でも行動でも、人から見たら何でもないことがその時は本人にとってすべてである。この歌を読んでそんなことを思った。

作者は学校の先生をしているようで、学校の場面を詠んだ歌が多くある。放課後だろうか、忘れ物をとりに戻ってきた少年。忘れたものは「臼歯ほどの消しゴム」だった。使い古してかけらほどの大きさの消しゴムを「臼歯」と表した所がいい。少年の肉体の一部のようでもある。この次に〈「これは僕の相棒なんです」受験生は消しゴムをしまひて言へり〉という歌があるから、その消しゴムがないと試験や勉強がはかどらない、お守りのような消しゴムだったのだ。作者はその生徒の心に寄り添っているように感じる。

 

教室に机を失くした椅子一つ光の中に置かれてゐたり

知る者のこの世にゐない校長の胸像部屋の隅に置かれぬ

 

作者は先生であるが、詠んでいる学校の風景は生徒が見ているような寂しさがある。対にあった机と椅子。その机がひとつどこかへ行ってしまった。それだけのことなのに大きな喪失感が漂う。そして椅子だけが光に照らされている。また二首目は古い時代の校長の胸像が飾られているが、誰も今、そのひとを知る者はいない。歴史の古い学校だということがわかる。そして胸像は本当に飾り物のようにそこに飾られているだけだ。

 

面接を終へて戻れる夜の道に脳の形に鶏頭ひらく

切られたる鋭きバラの枝の前辞書を抱へし青年がゆく

吾の持つ頭の側が傾きて棺はぐらりと車に入りゆく

 

さりげない場面でどきっとする表現がこれらの歌にある。一首目、「鶏頭」は花が鶏のトサカに似ているからその名があるが、その花をもう一度「脳の形」といった。丸くうねうねとした形が浮かんでくる。また二首目は剪定されたバラの茎の断面を捉えている。その鋭さに気付いているのは作者だけで、通ってゆく青年は何も知らない。

三首目は棺を車にのせて斎場にいく場面である。亡き人が入った棺の頭の側を作者が持っていた。必然的にそちらが重く傾いたのだ。死がとても生々しく伝わってくる。

作者は三十代前半であり、『青昏抄』は第一歌集であるが、青春の明るさはほとんど消されている。オーソドックスな詠みに誠実さが感じられ、作者が自分でもまだとらえきれないほどの内面の闇を、長く探し続けているように見えた。