このごろの日暮れおもえば遠天を あじさいいろのふねながれゆく

浜田到『架橋』(1969)

 

浜田到は1918年ロスアンゼルス生まれ、帰国後、17歳頃から雑誌に歌を発表。その後1950年代後半をピークに歌作を続けたが(年譜によると浜田の才能を見出したのは編集者の中井英夫であったという。)49歳の時に往診の帰りに交通事故死した。

この『架橋』は死後の翌年雑誌の同人達の手により出された。短歌を始めた頃、人に薦められて浜田の歌集をよく読んだ。歌の解釈よりその世界観に浸って読んでいた感じである。韻律も独特である。初句の字余りが多いがそこに詩と短歌の間のようなリズムを感じる。

この一首、淡い水彩画のようなイメージが広がる。「遠天」という言葉に果てしない距離感があり「あじさいいろのふね」は何かやさしい淡い色の舟が空を漂っているイメージだ。自分の気付かない空の高いところで、運命のような大きなものが流れていく。その不安感が美しく描かれているような歌ととればいいだろうか。

 

戸口戸口あぢさゐ満てりふさふさと貧の序列を陽に消さむため

 

紫陽花をモチーフにした歌にはこのような歌もある。「貧」という言葉があるがそれほど貧しいイメージをリアルに感じさせない。「戸口戸口」や「ふさふさと」といった言葉が小気味よく、は行の音が柔らかである。戸口に咲き満ちた紫陽花が家々を隠すように咲いている。「消さむため」とあり、それは花で隠れるが、本当に消えるものではない。そこに寂しさがある。

 

花の動悸押花にせむ(のこ)されし短き言葉と短き夏と

夕陽へつめたい風が吸われゆけば耳で立っている僕のほのじろい円

夕昏れをぼんやり帯びる色などがまた音などがあなたとなりゆく

もう死にはてたあなたに蛍いろはすこし地味かもしれぬ

 

やはりこれらの歌は現代詩に近いものなのかもしれない。特に二首目以降の歌は、一首だけで完結させようとせず、どこかの言葉の続きのようであり、知らない間に始まり知らない間に終わってゆく。浜田の歌には甘美的な喪失感が漂うが、そこに虚無感がない。喪いながら詩的な言葉で満たされて行くところが心地良い。「ぼく」も「あなた」も「生者」も「死者」もくっきりと分れてしまわず、絵の具の色が混じり合うように常にどこかで触れ合っているように感じる。早逝したこともあるが、浜田の生の意識のなかに死の色は常にやさしく混じっていたように見える。