わがはだか にえをすらしも。いしふねの肌に触りつつ― 夜にいりゆく

藤井貞和『うた―ゆくりなく夏姿する君は去り』(2011年)

 この短歌は、詩を書き、古典文学、とりわけ源氏物語を中心とした日本語文学研究者である藤井貞和の『うた―ゆくりなく夏姿する君は去り』(書肆山田)に収められた最初の一連に含まれる一首である。初期作品と思われる「青白波片」中、「影の転覆」と題され三章に分けられたその「楽章第一」13首目にある。

「書誌」から類推すると1960年代前半期に発表されたものであろう。「終わり書き」によれば、小冊子『蟹行―短歌型詩群集』として、半世紀前に刊行したものだという。蟹行(かいこう)は、よこばい?横文字?おそらく蟹のように這うことと思うのだが。

藤井貞和は、現代詩の作者であるが、短歌や連歌にかかわることを排除してはいない。その成果の一つが、この「短歌型詩群集」である。この本をまとめるには、歌人である成瀬有や折口資料を次々に発見する安藤礼二とともに折口研究の会をはじめたことが大きいのではないかと私は想像している。成瀬の死と共に活動を休止しているが、折口・迢空を通して短歌に近づく機会がひらかれた。

この短歌型詩群集には、藤井の全短歌が収録されているようだ。とりわけ若書きの中学時代の作も。

 

雨を重み― みぎゆ ひだりゆ しだれあう、山の樹見れば、歩きがたしも

静けさのきわまりてゆく 中つ海よ― 右舷にむけて舟かたぶきぬ

 

これが藤井貞和、中学時代の短歌である。字空け、ダッシュ、読点は、折口に倣い、後に付けたものだが、すでに短歌表現を自分のものにしている。そして語彙も。詩ではなく、このまま短歌に進んでいたとしたら、と想像するのも興味深い。

話を戻す。

このナルシシズムの極致のごとき一首は、何を歌おうとしているのだろう。「にえ」は贄、神への供犠(くぎ)、いけにえである。わが裸身を供犠とする。歌は、私の裸身は供犠としての役割を果たそうとしているらしい。岩船の石に膚が触れ、やがて夜のその時へ――生贄がまさに神に接触するその直前の姿、感覚を表そうとしているように読める。この奇異な行動は何か。

一連を参考にもう少し状況を推量する。「ふるさと」「五劫思惟(ごごうしゆい)阿弥陀」「古墳の原」「奈良山より来て」とあるところから、藤井は幼少の一時期奈良に住まいしていることを思えば、奈良から南下、飛鳥地方へ来ていることが察せられる。そして飛鳥近辺に「いしふね」、石船と呼べるのは、酒船石、石舞台、鬼の俎板。雪隠などなど、そして益田岩船……たぶんこの「いしふねの肌」は益田岩船の岩肌だろう。なぜか。次のような記述が、藤井の若き時代の著述に見いだされるからである。

「雨の飛鳥から檜隅(ひのくま)のほうへ、さまよい入った私は、道をうしないながら丘のうえに出て、巨石遺構によじのぼったとき、ほとんど正気をうしなっていた。風に吹かれて汗をいやすために、いつしか裸体になって巨石のうえによこたわった私は、たしかに何かを待っていた。雨のなかで、最初のほとばしる熱さが去ると、巨石からの冷えを背肉(そじし)に受けた。」(藤井貞和『釋迢空 詩の発生と〈折口学〉―私領域からの接近』(講談社学術文庫)

こんな記述がある。ここに参照したのは、1994(平成6)年刊の文庫版だが、もともとは1974(昭和49)年に刊行された藤井の若き日の折口論である。この書物の魅力は、言い尽くせない。私のある時期のバイブルのような存在であったが、その折口紀行の枢にこの一節がある。

すぐ後に「私の見神の実験は成功したのか、失敗したのか」と問う箇所があるから、これは藤井の「見神」である。古代の巨石遺構に裸身を横たえる。諸星大二郎『暗黒神話』にも同様の場面が描かれていた記憶がある。エクスタシー体験、それを藤井は「見神」実験と名づけた。見神の実験は、成功したともいえるし、失敗したともいえるという曖昧なものだが、この後藤井は「私は近代の人間であり、信仰喪失の徒」であるという認識に至る。

この見神体験が何を意味するのか。それはぜひこの本を読み、また藤井貞和のその後の活動を読み継ぐよりないのだが、この実験=体験を短歌の形にしようとしたのが、「影の転覆」一連であろう。

 

にえの神 にじりよるらし。ひたぶるになりくるわれのそじしの堅さ

村下る。ものたずぬれど応えなし。幻覚にいまだ山をさまよう

 

掲出の一首と併せて、『釋迢空』から引用した「見神実験」に合致するだろう短歌型詩である。ランボーの見神を意識した、藤井にとって重要な体験であったにちがいない。そして、藤井が短歌型詩群集の副題にする「ゆくりなく夏姿する君は去り」の一首に至る。「ゆくりなく」―予想しない、にわかに、不意に「夏姿」をしたきみは去っていった。失恋歌を装いながら、迢空が「遠き世ゆ、山に伝へし、神怒り。この声を われ聞くことなかりき」と歌う近代人の信仰喪失感を藤井なりにアレンジした一首ではなかろうか。

夏姿は、裸身を暗示し、「きみ」は、彼女であり神である。信仰喪失者の感傷と言えばいいか。

 

ゆくりなく夏姿する君は去り― 去るときあわれ後ろを見せず

 

これらは藤井貞和の若き頃の短歌型詩であるが、それから今に至るまで、それこそ間歇泉のごとくに短歌型の詩があふれ出ることがある。どれもこれも、なかなかに興味深い、そして自然なのである。短歌の気息を藤井は熟知しているとしか思えない。いわゆる自由詩(現代詩)のみならず、その噴出を味わいつくしてみたい。