くらあい誰もゐない博物館大きなほとけさまがぼくをみつめてゐる

島津忠夫『心鋭かりき』(1998)

 

国文学者の島津忠夫先生に初めてお会いしたのは大学時代である。大学院の授業を教えに来られていて、大学院の先輩からとても人気があった。冬の夜に先輩達がご飯を一緒に食べに行くというのでついて行った。初めて間近で見る先生は、人懐っこい関西弁で研究の話をされながらにこにことして玉子とじうどんをたべておられた。卒業してから現代短歌の世界にも島津先生がおられるのを知った。関西の短歌の会などで時々お会いし、卒業してから初めてお話することもできた。

この一首、口語がきいていて若々しい感じもする歌だ。京都国立博物館にとても大きな閻魔坐像があって一人で見たとき縮みあがったことを思い出すが、この歌は御仏を詠んでいる。お寺ではなく博物館に陳列されている仏さま。そのみつめる眼差しを作者はどんな風にうけとめたのだろう。

 

封建の色濃くそみし町にして人間晶子に不評のみ高く

封建の町に晶子の歌碑なくて甲斐町あたり夏草のゆれ

 

昭和32年、与謝野晶子を詠ったこのような歌もある。あとがきによると先生のお母さんが晶子の短歌が好きでその影響もあり、中学生の頃から作歌し始めたという。この一首は昭和32年、晶子忌に歌人が堺に集まり、会を催している一連である。しかし一首目のように地元での晶子の評判はあまりよくなかったのだろう。歌人としてはなにか複雑な思いだ。京都には晶子の歌碑はいくつかある。私がよくいく鞍馬山には鉄幹と晶子の歌碑が二つ並んでいる。しかし二首目のように、堺にはこの当時晶子の歌碑は建てられていなかったのだ。「甲斐町は」堺にある町の名。そんな寂しい町を作者は歩きながら夏草をみつめている。

 

飾られし遺影を見ればあるときは怒りあるときは嘲笑(わら)へるごとし

 

こんな歌もある。平成6年に亡くなった妻への挽歌である。なにか自分を強く責めているような歌である。妻の遺影は微笑むことなく怒っているようにも嘲笑しているように見えるという。四十年の夫婦生活に諍いがあったとも詠まれているが、亡くなってからも妻に深く悔い続けている。

 

家持も見しことありや台風の去りし雲間の夕焼けの色

涙もろくなりし秋かな耳もとに閑吟集の小歌ささめく  (以下『心鋭かりき以降』より)

 

研究者として古典文学も、身近な題材として作品に登場する。一首目は「万葉セミナー」で大伴家持が赴任していた高岡の地を訪れているときの歌。台風の去ったあとの夕焼けの空の色を見上げながら、こんな空の色を家持も見ただろうと思い浮かべる。

二首目は、室町時代の歌謡集である『閑吟集』をモチーフに胸の裡を詠んでいる。「世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり」といった小唄は中世の無常感を表しているが、涙もろくなってしまった自分の耳もとにそんな小唄が自然と流れてくる秋・・。とても雰囲気のある一首だ。研究者として幅広く古典文学の世界にいながら、現代の世に生き行く末を見つめている、人間的な先生の横顔が見えて来る。