紺いろに枝より垂るる茄子の実は悲哀のごとしふぐりの如し

玉城徹『樛木』(1972年)

 

夏野菜の一つ茄子――あの深い紺色の実は、じつに美味い。どのように料理しても不味くはならない。子どもの頃からの好物の一つで、幼年時、夕食前に調理し終えた茄子を甘く煮たものを大皿に盛って卓袱台に準備し、母は次の料理を調えに廊下に出た。戦後は終わったと言われながらもわが家は、親子三人アパート二階の四畳半暮らし、調理は廊下の七輪という時代である。

わずかの時間の後に部屋に戻った母は驚いた。皿の上の茄子がまったく姿を消していた。他でもない幼い私がすっかり食べてしまったのだ。茄子は六本あったらしい。茄子には目がなかったと云う。焼いても煮ても、また生の酢の物にしてもきれいに平らげた。酢も好物で器に残った酢を舐めつくしていた。

ただ記憶にはない。全て家族からの伝聞である。長じてそんな無茶食いをすることはなくなったが、茄子が好みであることは今も変わりない。母の味で言えば豆ごはん、蕗の煮たもの、そして茄子の煮びたしといったところだ。

食べ物の話をするつもりではなかった。茄子は食物として美味であるだけではなく、何か無視できない存在感のようなものがある。色、深みのある紺色、そしてあの形である。どこか魂の形態を連想させる。アケビを魂の形といったのは西脇順三郎であったが、玉城徹は、ここでは「ふぐり」、陰嚢、男性器を連想している。身近な野菜である茄子には親愛感があって、「ふぐり」への連想はごく自然であった(男性だけだろうか)。

玉城徹のこの一首、『樛木』では、「歌によつて悲しみを撥(はら)ふ」という項に収められ、後の『汝窯』(『馬の首』と『樛木』を項目を立てて編集し直した自選歌集)には、「自画像」の項にまとめられている。その「自画像」には、「独り生きるには、獣か神でなくてはならぬ――とアリストテレスが言う。第三の場合が足りない、人は両者でなくてはならぬ――つまり哲学者で……」というF・ニーチェの言葉が、エピグラフとして付けられている。

何が言いたいか。人は、獣であり、時に神である。しかし、それでは足りない、一人の人間の中に存在する獣と神の両方を見据えて思考しながら生きる、それが人間だ。つまり人は哲学者だ。そういうことだろうか。

そして、この歌だ。「紺いろに枝より垂るる茄子の実」に作者は、悲哀の感情を見いだした。茄子の実の形状に陰嚢を連想したからだ。人間存在の悲哀と呼ぶよりない性愛のことに作者の思いは及んでゆく。だからこそ、この一首どこかユーモラスである。