カサブランカのひらきはじめた部屋のなか繋ぎ目のない時間を過ごす

江戸雪『声を聞きたい』(2014)

 

作者の第五歌集より。下の句が印象的だ。「繋ぎ目のない時間」といわれると逆に、ひとつながりの時間に繋ぎ目があるような感覚におそわれる。ひとは毎日、細切れに一日を送っている。食べたり働いたり誰かの世話をしたり、寝ているとき以外は、時間をうまくやりくりして動いている。この一首はゆったりとした自分だけの時間があった日のことだろう。蕾だったカサブランカがゆっくりとひらき、そのゆっくりした開き具合のように時間が部屋に流れている。こんな風に何もかも忘れてゆっくりと過ごすことも、現代人には難しくなっているのではないか。

 

封筒の封をはさみであけてゆく永遠よりも一瞬が好きで

 

時間に関する歌ではこのような一首もあった。これも下句が面白い。「永遠」の方が人間にとって安心する要素は多いだろう。しかし作者は「一瞬」の方が好きで「一瞬」の方が強く信じられるのだ。感覚的に伝わってくるものがある。上句の動作のちょきちょきと封を切っていくはさみの感覚が「一瞬」とどこか呼応している。

 

もしかして死なざるひとのいるかもと太鼓打つおと夜空に響く

いちどだけ生まれたわれら天気雨に膝を濡らして自転車をこぐ

 

こういう歌も読みながらはっとした。死と生を詠んでいる。一首目、作者は大切な人の死を知った。哀しみのなか、「もしかしたらこの世のどこかに死なない人もいるかもしれない」という発想にたどりついた。「神」のような存在を思っているのだろうか。下の句の太鼓のリズムはまさに生のリズムであり、それをずっと聞き続けていると呪術的なものへとも繫がっていく。やさしい言葉で詠まれているが不思議な世界が広がる。

二首目は上の句にひかれる。「いちどだけ生まれたわれら」。あらためて言われることにより、強く自分の一度きりの「生」を意識する。

みんなそんなことを忘れて、当たり前のように毎日を生きているのだ。下の句の天気雨に濡れていく膝が生の美しい証のようだ。

 

ながくながくアルトリコーダー吹くように新幹線で東へ帰る

バスはいま坂を下ってアザラシの遠鳴きのような音をさせて来る

 

車を運転する歌や、こういった乗り物の歌も作者の得意分野である。一首目、上の句の比喩がとておもおもしろい。ちょっともてあました時間を感じるし、新幹線自体が長いリコーダーのようにも見えて来る。

二首目のバスは、大きな車体と「アザラシの遠鳴き」が合っていて寂しい感じもある。現代的でありながら懐かしさや、寂しさがどこかにきらりと光っているのがこの作者の歌の魅力なのだと思う。