ピカッドンと 一瞬の間の あの静寂 修羅と化すときの あの静寂

正田篠枝『唉!原子爆弾』(1946年)

*静寂に「しじま」のルビ。

 

一日早いけれど、広島の原爆被災に関する短歌を読んでおこう。

1945(昭和20)年8月6日8時15分広島に原子爆弾が投下される。69年前のことだ。世界初の原爆投下は、死者14万人、以後現在の到るまで原爆症患者を生み、その被害は甚大であった。他人事のような物言いになってしまうのが悔しいのだが、戦争は、とてつもない悲劇を必ずもたらす。

正田篠枝(1910~1965)は、爆心から1、5キロの距離にあった自宅で被爆。翌年、被爆当時の情景、自らの体験を短歌に詠んだ。正田は、昭和初期から杉浦翠子に師事、その杉浦が主宰する「短歌至上主義」に参加していた。被爆の惨状をリアルに歌った正田の短歌を、杉浦は自ら「註」を加えて、自作の歌誌「不死鳥」7号に「唉!原子爆弾」と題して39首を掲載した。「不死鳥」は、「短歌至上主義」が戦中の物資の不足時に廃刊、杉浦が疎開先である軽井沢で謄写版で自作していた歌誌であった。

翌1947(昭和22)年、この「不死鳥」掲載の歌をもとに歌集『さんげ』をまとめ出版する。百部、あるいは百五十部とも言われるが、GHQの検閲を受けない秘密裡の刊行であった。印刷は広島刑務所、印刷主任を務める中丸忠雄は、歌の内容に驚き、「マッカーサー司令部に知られたら殺される」と忠告するが、正田の熱意に負けて、一般に頒布しない、被爆者のみに配布するという約束で印刷した。

「唉!原子爆弾」は、この『さんげ』に推敲を経て収められる。今日の一首に揚げたのは、推敲以前「唉!原子爆弾」の一首目である。『さんげ』では、次のように改められている。

 

ピカッドン 一瞬の寂(せき) 目をあけば 修羅場と化して 凄惨のうめき

 

「静寂(しじま)」が「寂(せき))に、二度目の「静寂」が、「凄惨のうめき」に変わっている。原爆投下時の一瞬の無音世界、そしてその瞬時の静寂の後の被害者たちのうめき声。状況ははっきりするが、元の「あの静寂」の繰り返し、光彩と無音が一瞬のうちに死の世界へ変貌するなまなましい感覚は、整理された分薄くなっている。衝撃の大きさを感じとるために、あえて元の形のままの歌を紹介した。

 

木端みぢん 足踏むところ なきなかに 血まみれの顔 父の顔なり

救急箱の あり處(ど)思ひて 歩まんとすれど おのれの足 立たざりき

奥さん奥さんと 頼り来たれる 全身火傷や 柘榴(ざくろ)の如く 肉裂けしもの

仁王の如く 腫れあがり 黒焦げの 裸の死骸が 累々とある

筏木(いかだぎ)の 如くに浮ぶ 亡きがらを 長竿に鉤をつけ ブスッとさしぬ

まだ息をして 命はあれど 傷口に 蛆蟲わきて 這ひまわりをる

大き骨は 先生なり あまたの小さき骨 側にそろひて あつまりてある

 

原爆投下後の惨状が歌われている。いずれも「唉!原子爆弾」からの引用である。衝撃の大きさは、定型を破る。その破調が、衝撃の大きさを表している。

『さんげ』では、次のように変わるのだが、この推敲にも正田の痛苦を思わざるをえない。

 

木ッ葉みぢん 崩壊の中に 血まみれの まっ青の顔 父の顔まさに

奥さん奥さんと 頼り来たれる 全身火傷や 肉赤く 柘榴と裂けし人体

大き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの 骨あつまれり

 

こうした推敲とともに『さんげ』には、さらに記憶をたどり直したのだろう惨苦の歌が増えている。

 

目玉飛びでて 盲目(めしひ)となりし 学童は かさなり死にぬ 橋のたもとに

ズロースも つけず黒焦の 人は女(をみな)か 乳房たらして 泣きわめき行く

 

ヒロシマの原爆については、さまざまな記録が残り、また小説や詩もその惨劇を伝えている。正田篠枝の短歌は、かなり早い時期にその惨苦を歌ったなまなましい記録である。現代教養文庫『さんげ 原爆歌人正田篠枝の愛と孤独』(広島文学資料保全の会編)は、正田の生涯と短歌をまとめたものだ。ぜひ一読をお勧めするとともに戦争について考える契機としていただきたい。