安物のパズルのような隙間あり この家にあるいはわたしの中に

宮地しもん『f字孔』(2014)

 

この歌集を机の上に置いていると、娘がわあっと声をあげ愛しいものを見るように表紙を眺めていた。「f字孔」はバイオリンなどの弦楽器の表板の左右にあけられたf字形の孔で、空気の振動を外に伝える役割がある。娘はコントラバスを弾いているのでこの言葉に馴染みがあったのだ。作者はチェロを弾くという。表紙の「f」の字はイタリック体で表されてちょうど楽器にある孔のデザインのようで美しい。

冒頭の一首、じわじわとわかってくる一首である。安物のパズルにある隙間、それはきっちりとはまるようなはまらないようなもどかしい隙間である。家族の人間関係や自分の内面をこの比喩で表しているのだろう。きっちりと合わさっているとみせかけて、少しの隙間がある親と子、妻と夫。どこか少しずつその隙間を我慢しながら家族とはひとつの家に住んでいるのだ。

 

一度でも本当のことを言ったろうか からっぽの鳩となりたる心地

f字孔のぞけば暗き空間よ (くう)のつくものなべて大切

ゴミ捨て場に置かれし一本の硝子瓶そのからっぽに光そそがる

 

このような歌もある。一首目、誰に対してだろうか。子供にだろうか、それとも自分が生きてきて今まで「本当のことを言っただろうか」と問うているのか。そんな風に問われるとはっとする。からっぽの鳩のように、どこかに飛ばされてしまうような心もとない存在に自分が見えて来る。

二首目は「f字孔」を詠んだ歌。「空」のつくものとは何だろう。「空気」や「空想」「空白」「空虚」などいくつも思いつく。一首目や三首目にも詠まれているように作者のこころは「からっぽ」のものに寄っている。からだけれどどちらも存在感のあるもの。ざわついた現実の場所から遠ざかり、何もない、無音の、無の場所のようなものに作者は何かを求めている。

 

いつまでも冬眠しないクワガタにカサッと呼ばれたようなキッチン

母の死の(のち)しばらくは生卵食べられずあり たしかそうなりき

言葉がちゃらちゃらしてくることがある他人のブログまた読みすぎて

 

さらっと表現してあるが、感覚の鋭さがどの歌にもある。「クワガタ」「生卵」「他人のブログ」、それぞれが少しずつ、作者の存在を揺さぶっている。揺さぶられることにより、再び作者は自己の可能性のようなものをみつけているようでもある。