人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら

竹山広『とこしへの川』(1981)

 

昭和20年、竹山広は結核のため長崎の病院に入院していて、退院予定日の8月9日、原子爆弾が投下された。25歳のことであった。病院は爆心地から1400メートル離れた所にあったが、夕方までに全焼し、竹山は翌日の夕方から5日間、雑木林の中で火傷の兄を看取った。

これはその回想のなかの一首だが、混葬とは多くの遺体をつみあげて火をつけている場面だ。そのなかに見知らぬ人の手が見えた。それもだんだんと開いていったという。混葬の場面だけでも忘れがたいものなのに、そのなかで生きているようにひらいていったひとつのてのひら。誰にも言うことなく竹山はその手のことを忘れられずにいた。

 

涙すすりて黙祷に入る遺族らを待ち構へゐしものらは撮りぬ

地位高き順に献ぐる花束のひとつひとつをわれは目守りぬ

 

このような歌もある。8月9日に毎年行われる平和記念式典の様子を詠んでいる。一首目は報道のカメラマンの様子である。「待ち構へしものらは撮りぬ」と式典での一番の場面を撮ろうと構えているカメラマンの様子をよく見て居る。また二首目は献花の場面だが、知事や市長など地位の高い順に人々が動くさまを淡々と詠んでいる。竹山は、壮絶な原爆投下、その直後の町や人々の様子も多く詠んでいるが、そこだけに留まらずいろんな方向から長崎の原爆投下について考え続け、生涯、歌に詠み続けた。

 

ヒバクシヤと国際語もて呼びくるる夕まぐれ身のくまぐま痛む

被爆時の記憶さへ妻と相たがふ三十五年念念の生

 

こういう歌にも、ひとつひとつ考えさせられながら読む。悲惨だったな、大変な苦労をしたんだなと大雑把に被爆体験を読むのでなく、竹山の歌は読むたびに新しく何かを認識し、批判の眼や問題意識をもたせてくれる。一首目の「ヒバクシヤ」では単純に私たちは被爆者と呼んでいるが呼ばれている当事者の気持ちまでは考えていない。また二首目では被爆時に同じ病院にいた妻を詠んでいる。35年の歳月が経ち、同じ体験をしていると思っていても記憶がお互いに少しずつ違っていることに気付く。こういう歌にも真実を細かく詠もうとしている竹山の鋭い意識を感じる。『とこしへの川』は被爆から36年経って竹山が61歳の時に出した第一歌集である。