天皇を泣きて走れる夜の道の草いきれこそ顕ちくるものを

岡井隆『眼底紀行』(1967年)

*顕に「た」のルビ。

 

岡井隆の短歌の中で、私はこの一首がもっとも大切なものの一つだと思っている。岡井の短歌が、現在に至るまでに変貌に変貌を重ねていることは周知である。その変貌にこそ時代に応じた岡井の真価があるという言い方があることも承知している。が、私は、この一首があるから岡井の短歌に信頼を置く。

さらに、次のような発言がある。

 

短歌は、たぶん、日本語にとって消すことのできない母斑なのであり、そのことを、上田三四二は「底荷」と表現したが、わたしは、負の側面をみとめた上で「原罪」のような存在だというのである。日本人は、この言語上の母斑を消すことはできない。言語史上文化史上の「原罪」をのがれられない。短歌を作るということは、この事実に、多かれ少なかれ、身をもって直面するということなのである。(『短歌の世界』岩波書店1995年)

 

「母斑」は、先天的に皮膚上に存在する斑紋、胎生期の皮膚形成過程で生じたもので、生涯のさまざまな時期にあらわれるという。つまり短歌は、日本語の「母斑」として千数百年前から未来へ、日本語が存在するかぎり無くならないと言う。

「原罪」は、アダムとイブが禁断の木の実を食べてしまったという人類最初の罪、生まれながらの罪というキリスト教の概念。「原罪」のように消すことができず、背負いつづけねばならぬということ。

「底荷」は、船舶の吃水を深く安定させるために、船底に積み込む重荷をいう。バラスト、石や石炭・塊鉄など。歌人の上田三四二が、「短歌を日本語の底荷だと思っている」(『短歌一生』)と著したことを受けている。

というように岡井は、日本語がつづくかぎり短歌は滅びることはないというのだ。短歌の歴史は滅亡論との闘いのようでもあるが、岡井は滅びずと結論している。そして岡井が「負の側面」と認めるのは、短歌が戦争に深くかかわったという事実を指す。戦後の「第二芸術」論議で糾弾された短歌的抒情の非論理的、大衆迎合的な脆弱性を認識した上で、なお短歌の存在を認めるということだ。

そして、この今日の一首も、そうした岡井の短歌観とともに了解されるのである。「天皇を泣きて走」るは、敗戦時の天皇への思いを述べたものだ。戦中派少年のパフォーマンスに他ならない。1928(昭和3)年生まれの岡井、敗戦時17歳である。当時のセブンティーンのごく普通の心情であったと思う。私の父も昭和3年元日の生まれ、典型的な皇国少年であった。それもかなり過激な。その父が、岡野弘彦の「辛くして我が生き得しは彼等より狡猾なりし故にあらじか」(『冬の家族』)とともにこの一首に深い共感を示したものだった。

敗戦を知ったその夜、やりばのない思いにあてもなく駆け出す。周囲は夏のあら草が繁茂して、その昼間の熱がまださめやらず、熱気を発する。その荒草原の熱気の顕在化こそが、敗戦の日の記憶の徴なのだ。

岡井隆の名を記憶にとどめた最初の一首がこの歌であった。