兵営に消燈喇叭の鳴るときし南十字はかたむきにけり

田中克己『歌集戦後吟』(1955年)

 

田中克己(1911~1992年)は、大阪の天下茶屋に生れ、大阪高等学校に入学、そこで保田與重郎を知り、以降「炫火(かぎろひ)」、「コギト」と保田と文学的行動を共にし、最初は短歌を、やがて詩作に才能が発揮される。東京帝国大学の東洋史学科に学び、その知識を生かした長編詩「西康省」が評価される。詩集に『西康省』、『大陸遠望』、『神軍』、『悲歌』などがある。

若き日に保田とともに短歌に熱中した時代があり、詩に重きを置きながらも、折に触れては短歌を作っていたようだ。1955(昭和30)年、『歌集戦後吟』(文童社)を出している。A6版86ページの小型の歌集であるが、セピア色の印字と瀟洒な造りの本は、私の宝物の一冊である。

内容は、「戦後吟(昭和廿一年~廿九年)」67首、「戦中吟(昭和十七年~廿年)」64首、「年少吟(昭和五年~八年)」65首の3パートから成る。全196首、小ぶりの歌集だが、少年期以来の短歌愛が、この一冊には感じられる。

田中克己は、1942(昭和17)年1月文士徴用の第二陣として、北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと南方戦線後方に派遣される。シンガポール、スマトラを廻り、8月交通事故に遭い、12月帰国。そこで徴用は解除されるのだが、1945(昭和20)年、敗戦の年の3月、北支派遣独立警備兵の二等兵として中国河北省唐県に派遣される。34歳、老兵と言えよう。同時期に同年の保田與重郎も徴兵されている。こちらは明確な懲罰召集と思われる。関係があるのか。保田とは戦地へ向かう車輛で会ったりもしている。

田家荘のトーチカ、望都県で京漢線鉄道警備などにあたり、敗戦後、現地除隊。天津に長くとどまるが、1946(昭和21)年2月佐世保入港、帰還。

これが田中克己の戦争体験である。その「戦中吟」から今日の一首は選んだ。歌の内容からすれば、1942年の文士徴用の時の一首であろう。「兵営」とは言いながら、ゆとりが感じられるのは前線ではない、しかも文士徴用だからであろう。とはいえ、南方の夜空にかたむく南十字星は抒情的であり、このロマンチシズムは田中克己のものである。

 

手長猿飼ふ兵あるをわが見しが時すぎぬればあやしともせず

われに二目(にもく)置かせし独立工兵はコレドヒールに血にあへけむか

かつて吾(あ)をうちし伍長はこのゆふべむくろとなりてかへり来(き)しはや

夕まけて営庭に立ち正行(まさつら)の戦死のうたを兵らうたひぬ

あかあかとあだのたく火を見やりつつひところさじとわれは誓ひし

 

「戦中吟」から選んだ。戦地での兵の様子が歌われる。最後の歌は、中国戦線でだろうか。本格的な戦闘に田中は遭遇しなかったのだろう。どこか安閑としたところがある。

 

北支那のなつめ林にわがいのち棄つべかりしをかへり来しはや

たたかひに出でゆくわれと知りしときすなはち身をばまかせしものか

おもふことなき世なりせば山の辺のみささぎ守(も)りてあらましものを

佐保川のつつみの花をつみゐれば稲田のうへに風吹きわたる

 

「戦後吟」から。より深い陰影が刻まれている。

最後にもう一首だけ引いておきたい。歌集最後の歌であり、最初の詩集『西康省』のエピグラフとしても使われている。おそらく田中克己のもっとも若き日の歌だと思われる。そして田中の短歌の中では、私の愛する歌でもある。

 

この道を泣きつつ我の行きしこと我が忘れなばたれか知るらむ