一口のパンが喉(のみど)を通った日私は真紅の薔薇になった

柳澤桂子『冬樹々のいのち』(1998)

 

生命科学者である柳澤桂子が原因不明の病に倒れたのは、40歳の頃のことだったという。二人の子を得、三菱化成生命科学研究所の研究員としてばりばりと働いていた時だった。原因もわからず、夫と病院を転々とし、その間に痛みと闘い、全身に麻痺がひろがり、寝たきりとなる30年間の壮絶な闘病生活は、その著書『ふたたびの生』に細かく記されている。この本の内容以上にもっと語りつくせない苦しみがあったに違いないが、読みながら不思議に柳澤の文章は読者にまで苦痛を与えないものだった。家族に対する感謝や、手作りの料理を食べさせてあげられない辛さを常に思っていて、自分の死に対しても常に冷静にどこからか見ている。また寝たきりになりながらも多くの執筆をこなしている日々があった。

闘病中、ものを食べた時に激しい痛みが起こり、飲み込むことが困難になったので手術をしカテーテルで栄養をとっていたが、その後、奇跡的に新しい診断と薬によって体の痛みがとれ、それを外し、自分の口から食事をとれるようになった。その喜びが冒頭の一首に詠まれている。「私は真紅の薔薇になった」というところに、今やっと咲きひらいた命があり、普通に食事をして、起き上がれたことに体中が喜びの声をあげているようである。

 

枕辺の湯呑に映る景色にも秋は静かにたたずみており

ひっそりと竿竹売りが帰りゆく竿竹売りの声も立てずに

 

寝たきりの部屋から詠まれた歌であろう。穏やかに季節や、周囲の様子を感じ取っている。

 

麻痺進み疲れて重き両の手は満月一つ磨きしごとく

 

このような歌もある。下の句で大きく歌が展開している。字を書くことも困難な両手、それはまるで「満月一つ磨きしごとく」重いという。病の辛さのなかふっと現実を離れていくような比喩である。

 

こうもりは犬の貌して空を飛ぶ鳥の貌して飛ぶのではない

私が羊歯だったころ降っていた雨かも知れぬ今日降る雨は

 

歌集『いのちの声』より。一首目、上の句が特におもしろい。確かにコウモリは鳥のように飛ぶけれど犬のような貌をしている。二首目、柳澤の父は植物学者であったという。自身が生物科学者だったこともあわせて、歌に草花や苔、昆虫などもよく詠まれている。羊歯には古代植物のイメージがあるが、生まれる前の遙かな昔、自分が古代植物だった頃をイメージしているのかもしれない。

 

魂をそっと洗って干した日は口から漏れる光の香り

 

『いのちの声』は2002年に出版されて、病もやや落ち着いた頃の歌が多い。この歌には月光のイメージを感じる。死の淵を見ながらもう一度生かされた命に、作者が見たものをここに感じる。