朝くらき花屋の土間に包まれて仮死せるごとき白百合の束

さいとうなおこ『キンポウゲ通信』(1984)

 

歌集名になっている「キンポウゲ」は春に咲く野草で別名「ウマノアシガタ」ともいう。すらっとし茎に黄色の花がひらき明るい印象の花である。田圃の畦道によく咲いていて、小さいころに憶えた花のひとつだ。有毒ということもこの花を印象つけている。かわいらしい題であるが、歌集をひらくとまた別の世界が広がっていて、日常のなかから己を静かに見つめている歌に出会う。

冒頭の一首は、朝早く花屋に届けられた百合を見て詠んでいるのだろうか。「仮死せるごとき」というところに立ち止まる。言われてみれば根を切られた生花のすべては仮死状態にあるのかもしれない。本当に死んでしまうまでの最後の美しさをひとは求めて花束を買うのかもしれない。うすぐらい土間に置かれている白い百合の冷たい美しさを思う。

 

もう一人僕がいたよと子は夢をはじめて語りぬ朝のくりやに

伏して寝ねし子の暖かき蹠にせせらぎのような静脈透きぬ

 

幼い子を読んだ歌も多くあり、懐かしさを感じながら読んだ。一首目、夢を初めて見た、それを言葉にして幼子が母親に言っている場面である。「もう一人僕がいたよ」という科白がいい。夢に現れた自分を見たことが驚きだったのである。幼い子はときどき本質的なことを何気なく言ったりするが、そういう所を見逃さずに見つめている視線がある。二首目は眠っている子の足の裏を見ている。小さなせせらぎのように透けている静脈は、瑞々しい命を表し、そこに育ってゆく喜びがある。

 

「〈家族〉は私にとってはつねに想いの中心であり、私と天地でおこるあらゆるものごととを繋ぐ糸だと思っている。」

 

という一文が歌集のあとがきにあった。なるほどと思う。子供がいなければ見えなかっただろういろんな事がある。自分の周りのこともそうであるが、自分の内側に関してもである。人生の夢について、恋愛について、人間関係について、成長するその時々に子供はさまざまなことにぶつかり、私にもその問いを強く突きつけてくる。

 

もうすこし目を上げたなら何が見える 狭き視野の中鳩が降り来る

むきあいて座りし人の首の傷白きがわれの目に残りたり

息するを忘るなと人はしみじみとわが顔見つつ言い給うなり

 

一首目、低く目線を走らせていたのだろうか。もう少しだけ顔をあげたら違うものが見えて来るのかもしれない。それがどこにでもいる鳩のような存在であったとしても何かが変わってくるだろう。二首目は手術痕であろうか。どんな関係のひとであるかはわからない。まったくの他人であるかもしれない。その傷あとが言葉よりももっとなまなましく何かを作者に告げているように見える。三首目はよくわからない。わからないけれど、息をすることさえも忘れるほど人は苦しい時があるかもしれない。「息するを忘るな」と尊いひとに言われて、作者は何かを乗り越えていったのかもしれない。