群雀ねぐらあらそふ竹村のおくまであかく夕日さすなり

大正天皇『おほみやびうた』(2002年)

 

大正天皇(1879~1926)の歌である。昭和天皇の歌を紹介した時(4月29日)にも述べたように、天皇は歌を作ることが、役割の一つである。父である明治天皇は1日40首、生涯に10万首とも伝えられ、また長子にあたる昭和天皇も1万首ほどと言われる。大正天皇は漢詩に堪能であることが知られているが、和歌も数は三代の天皇のなかでは少ないものの優れた才を示している。

今日ここに紹介したのは、1917(大正6)年の作とされる。

 

はるかなる沖の波間のはなれ島夕日をうけてあらはれにけり (1915年)

雨はれしあしたの風に苗代のみなくち祭るしめなびくなり  (1918年)

 

このような歌とともに鑑賞すると大正天皇の充実期の歌の力が分かる。この鑑賞でもいく度か触れたが、折口信夫が玉葉集、風雅集に短歌の表現力の究極の姿を見いだした。そのいわゆる京極派風の歌が、これらの作に伺える。

一首目は、京極為兼の「沈み果つる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰」を思わせる。その海上版のようだ。調べに注目してほしい。このさらりとした表現。清新な印象である。二首目も、皇居内の苗代に入れる水口に祭る「標(しめ)」の風に靡く様子を丁寧に描写する。これも優れた歌だ。

そして今日の一首。竹林の奥を照らす夕日、そこに群雀の鳴きさわく声、視覚と聴覚とを働かせながら、それを単純な調べに捉えた。集中した作者の心理が感じられる。たしかに明治天皇、昭和天皇に比して詩情を深く持ち、透徹した描写力を感ずる。

感心したのは、大正時代に入ってすぐの作と思われるが、次のような歌がある。

 

鶯やそゝのかしけむ春寒みこもりし人のけさはきにけり

 

「三月八日庭にて鶯の鳴きけるにこもりゐたる萬里小路幸子がまゐりける」と詞書がある。病にこもっていた女官が、鶯の鳴きだすとともに出仕してきたということだろうか。心のこまやかに働いた歌だ。これはじつに気の利いた作だと思える。

 

月かげにさばしる鮎のかげみえて夏の夜川のすゞしかりける

秋風に窗うつ雨のさびしさもわが身にしみて冬近づきぬ

 

明治期にすでにこのような歌を作っていた大正天皇であった。