釈迢空『春のことぶれ』(1930年)
「なき人」は、古泉千樫である。アララギ同人として親しく付き合い、後にお互いにアララギを脱会、北原白秋らと「日光」を創刊。短歌にも共感を示し、迢空が信頼を置いていた歌人の一人である。
古泉千樫が亡くなったのは、1927(昭和2)年8月11日。迢空がその死を知るのは、土佐高知から伊予を歩く旅の途次、新聞記事によってであったらしい。(今日は9月11日、一月遅れであるが、8月は戦争にかかわる歌と勝手に決めていたので、この日になったが、是非にも読み直しておきたい歌だけにむりやり登場してもらう。)
亡き人の今日は、数えると初七日になってしまってあろう。(わたしは旅にあって、たまたまに)遇う人も、また別に会う人も、つぎつぎに巡礼である――とは、迢空の意図を汲んで直訳的に訳してみた。
「なりぬらむ」が重要だ。なってしまってある今だ――そこに悲しみがひそみ、下句に影響を与える。下句の五、五、六(二・四)の破調が、また効いている。ぽつりぽつりと「遇ふ」人、「あふ」人……そこには四国巡礼の人のみならず死んだ千樫も、また業病の旅人も、そして自分も交ざるのである。結句、初出では「順礼」であったが、「旅びと」に収まった。「自歌自註」には、「こゝは順礼だと印象がはつきりしすぎて、空想が稀薄になる」とある。
同じ一連には、次のような歌がある。
ひそかの心にて あらむ。
旅にして、
また 知る人を
亡(ナ)くなしにけり
みなぎらふ光り まばゆき
昼の海。
疑ひがたし。
人は死にたり
遠く居て、
聞くさびしさも
馴れにけり。
古泉千樫 死ぬ といふなり
まれまれに
我をおひこす順礼の
跫音(アノト)にあらし。
遠くなりつゝ
迢空の第二歌集『春のことぶれ』は、本来このように行を分けて表記されている。(ここでは字空けが正しく行えないので、とりあえず行分けだけを参考にしてほしい。正しくは原本を)勿論、縦書きだが。今日の一首は、この最後に同じような表記で置かれている。ためしに、同じく記しておこう。悲哀がいっそう深くなるにちがいない。
なき人の
今日は、七日になりぬらむ。
遇ふ人も
あふ人も、
みな 旅びと