雲を踏み嵐を攀て御熊野の果無し山の果も見しかな

伴林光平『南山踏雲録』(1863年)

 

幕末の国学者である伴林光平(ともばやし みつひら)は、天誅組(天忠組)の変が起こると夜を継いで五條へ駆けつけ、事変に参加する。50歳になろうという年齢である。主将に仰いだ中山忠光、総裁に藤本鉄石、吉村寅太郎、松本奎堂をいただいた土佐藩、久留米藩脱藩浪士40名ほどを中心に、後に千名に及ぶ十津川郷士らが加わったものの経済面でも武力面でも弱小集団であった。

文久3(1863)年8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔勅が発せられた。その先鋒となるべく天誅組は、8月17日、幕府天領の大和国五條代官所を襲撃、代官の首を刎ね「五條御政府」を称した。

しかし、その翌日、いわゆる八月十八日の政変が京都で起こる。行幸は中止、攘夷派は失脚、天誅組は暴徒として追討されることになった。十津川郷士の協力を得るものの義を失った烏合の衆は、結局壊滅、それぞれに脱出をはかるが、多くが討死、また捕縛されて獄死した。

伴林光平(1813~1864年)は、真宗の僧侶であったが、国学に傾倒し「本是神州清潔民(もとこれ神州清潔の民)」と寺の壁に書き残し出奔、以後勤皇志士として活動する。大和、河内の天皇陵をめぐり、その荒廃を嘆き『野山のなげき』、『大和御陵墓検考』という著述があり、和歌にもすぐれていた。

『南山踏雲録』は、伴林光平が囚われた獄中に事変の戦況や情勢、感慨を記録したものである。そこには自作の和歌が多く記され、死を宣告されながらも、精細な記録と落ち着いた筆致が印象的だ。国学者としての古典の深い教養が、獄中という苛酷な環境においても発揮された名著と言えるだろう。とりわけこの事変に加わった仲間の志士それぞれの人物評が詳細、的確で面白い。たとえば、こんな調子である。

 

宍戸弥四郎正明、三河国碧海郡刈谷の藩士也。性沈黙寛温、能く人を敬す。尤も軍事に委し。されど太鼓は委しきに過ぎて、杜下儀之助に及ばざるか。杜下の太鼓は、よく歩卒を進めて、気力衰へず。宍戸の太鼓は、歩卒疲弊すること多し。呼吸の長短、寛急によること成べし。古ニ曰ク、死生朴端ニ在リト、慎むべし慎むべし。

 

獄中に参考するものも少ない中での記述である。宍戸は、山鹿流の太鼓を学び、鷲家口に戦死。杜下は土佐の人、光平同様、獄中に斬刑。伴林光平は、参謀兼記録方に任じられていた。ただ、この『南山踏山録』は、獄中での記憶の記述であり、正式な記録ではない。それだけに自由な、そして率直な感想が誌されている。

自作の和歌が130首余掲載されて、時に歌物語のような趣も示して、やはり優れた一冊だと思う。

天誅組解体後、光平は逃走途中、自家に立ち寄る。そこで妻がわが子二人を置き去りにして出奔したことを聞く。

 

いと心ならずて、急ぎかへりみけるに、蔀(しとみ)透垣(すいがき)なども、野分の後のやうに荒果てたるに、吹あるゝ松の風に、木々の落葉のおとなふのみにて、聞馴れし筧の音だにせねば、いと悲しうて稚(いとけな)き児等の、つれなき親ぞと、恨むらむ心のほど思ひやられて、物もおぼえねど、

親ならぬ親をも親と思ひつゝ此としごろを子や頼みけむ

 

親としての申し訳なさをこのように書き記し、一編の歌物語のようである。幕末一流の文士であったことが分かるだろう。二人の子は、かかわりのあった中宮寺にひきとられていた。

五條から吉野の奥地へ、そして天の辻、あらゆる場面で光平は歌を残した。さらに獄中で記憶を辿りそれも歌に読んだ。

今日のこの一首は、「南山に在りし時の事ども、おもひいでて、一つ二つと詠添ける歌」として『南山踏雲録』後半に獄中の歌作が集められている、その最初の歌である。事変を振り返り、その象徴となるような一首だ。題名も、おそらくこの歌から採られている。

果無山脈は、吉野を越えて熊野につながる奥地、十津川郷に近い。実際にその山まで行ったわけではないが、それほどの果て無き戦いを戦ったという思いがあるのだろう。光平自身、長巻の太刀を愛用していたことも記されている。そして、この地はまさに懸崖険しき山岳地帯である。雲を踏み、嵐を攀じ登るは空想ではない、実際の彼らの行動であった。望み見た果無山の彼方には、新しい世が見えていたのだろうか。

ちなみに私が、はじめて一人で旅をした高校一年の夏、河内長野の楠木正成の首塚から五條、そして吉野へ、天誅組の故地を訪ねる目的の旅であった。

 

榧の実の嵐におつるおとづれに交るもさむし山雀の声

鉾とりて夕越来れば秋山の紅葉の間より月ぞきらめく

家邑を千尋の谷の底に見て椙の梢を行く山路かな

夕づく日麓の松にかたぶきぬこゝや雲より上の地の里

 

行軍、陣中における歌である。50歳になろうとする貧乏学者が志士然と戦いの火中に身を投げ込んで、まさに維新のさきがけであった。