遠山の時雨にしづむ昼つ方われと暮らしてさびしいか君

加藤和子『天球の春』(2014)

 

誰に問いかけているのだろう。夫であろう。しかし声に出して訊いてはいないだろう。胸の中でこんな風に問いかけたい瞬間があるのだ。あるいは本当に寂しいのは自らかもしれない。自身のなかに寂しさがあるから、傍にいる人も同じ気持ちではないかと思うのだ。一番近くにいても人はその人をすべて得ることはできないし、日々お互いに何かを失っていくこともある。時雨に山がかすんで沈んだように見える真昼、何もない平穏な日にこそ、こんな気持ちがおとずれる。

 

君の言ふあの頃のわれは淡水魚ちつぽけな(ふえ)をたましひとして

 

君は若い時の作者を知っていてなつかしく振り返っているのかもしれない。作者にしてみれば今振り返るとあの頃の自分は「淡水魚」だったという。「淡い」という字があるから存在自体が薄くはかないものだったように感じる。下句では魚の浮き袋がたましいだったと表す。空気を入れたり出したりするぽっかりとした「鰾」のようなたましい。すぐに壊れてしまいそうな危うさや、はかなさがここにもある。

 

隊列をはなれ翔びゆく二羽の鳥空はぼんやり見逃してをり

 

こういう歌の作り方もおもしろい。下句の「空はぼんやり見逃してをり」で一首の主体が鳥から空へ知らない間に変わっている。離れた鳥はどこへ行ってしまうのだろう。ぼんやりと薄曇のような空が頭に浮かぶ。ちょっとした不安感のようなものが読後に残る。

 

きさらぎの夜をみひらける梟の毛布のやうなこゑとどきたり

 

「毛布のやうなこゑ」に立ち止まった。毛布には音はない。あたたかさや触感があるくらいだ。毛布のようにあたたかい声なのだろうか。毛布に包まれているようにくぐもった声なのだろうか。何か面白さがある。

 

桜に遭へば思惟の回路のこときれて眸に映れども(くう)のごとかり

 

こういう歌もよくわかるところがある。現実に目は桜が咲いているのを見ているのだが、だんだんと見れば見るほど(くう)なるものを見ているような感覚に襲われる。桜に圧倒されて頭の思考回路も少し狂わされるような、不思議な感覚を詠もうとしている。

 

回想の家族四人の食卓のわが表情はわれには見えぬ

 

父母と暮らしていた頃の食卓であろうか。幸せな景色であるとおもうのだが、自分の表情はどうしても見えないようなのである。笑っているのか、寂しい顔で座っているのか、見えないことがどこまでも気になる一首だ。