秋彼岸非日常のマント着て地獄の君に会いにいこうか

重信房子『ジャスミンを銃口に』(2005年)

 

重信房子(しげのぶ ふさこ)――日本赤軍の最高幹部。最近は娘である重信メイがジャーナリストとして中東問題を扱って活躍しているが、その母である重信房子の歌を読もう。

1970年代、まだ政治の力が信じられていた時代である。新左翼運動の末期、暴力革命をめざす集団があった。1971年、連合赤軍にむかう森恒夫らとの路線の対立から重信は日本を脱出、パレスチナへ。レバノンを拠点に国際的な「革命運動」を展開。ハーグ事件(同志奪還のためにオランダのハーグのフランス大使館を占拠した事件)への関与により国際指名手配された。その後逃亡をつづけたが、2000年大阪で逮捕。裁判は、最高裁まで争い、異議申し立てもするが、2010年棄却、懲役20年の罪で服役。その後癌がみつかり現在は八王子医療刑務所で抗癌剤による治療を行っている(以上主にウィキペディア情報)。

重信房子は、裁判が始まった頃から、弁護士(大谷恭子、『ジャスミンを銃口に』編者)のもとに「短歌ダイアリー」として月二回、短歌を送ってきた。2002年春から2005年3月までに3548首、それはそのまま重信の日記であった。その中から257首が選ばれて、この歌集が出版された。

重信房子の父は、安岡正篤の金鶏学舎に学んだ、いわば右翼的な心性の持ち主であった。金鶏学舎は、井上日召や四元義孝ら血盟団事件を謀るテロリストたちとつながりがあったが、重信の父は事件にかかわったわけではない。思想は反するが、重信はその父親の影響を受けていた。社会の変革への希望も父の影響が考えられる。獄中に短歌を作ることも、日本的な作法に思えるだけに注目される。日記と称しているものの、短歌を自己表現の手段に選んだことに興味を持つ。

前に紹介した連合赤軍の坂口弘もそうだが、あるいはテルアビブ空港乱射事件で射殺された奥平剛士は漢詩だというが、新しい社会を暴力的革命によって実現しようとする、あの70年代の若者たちの心性は、ひどく日本的だったように見えて、これも興味深いのである。愛国を唱える右翼ややくざを構成する人に在日朝鮮人が少なくないことも併せて、ナショナリズムの在り方を考えさせられる。

話が跳んだ。重信房子の歌である。

 

秋晴れのぶどう畑とアーモンド アラブの日々を恋うる夜更けよ

一本のロウソクのもと肩を組みインター歌いて戦線に就く

パレスチナわがまほろばの崩れゆく空のみ高きジェニンの町よ

乳母車日傘傾け押した道白きバグダッド戦場と化す

 

アラブに革命を夢見ていた時期の回想であろう。パレスチナへの思いは、やはり深いものがある。「わがまほろば」と呼び、パレスチナ人の夫との間に、パレスチナを本籍とする娘を持つ。また闘争に多くの仲間を失った。その中には重信のパレスチナ人の夫も含まれる。

今日のここに紹介した歌も、パレスチナ人の夫への相聞であろう。「非日常のマント」を着用して「地獄の君」に会う。「非日常のマント」は戦闘着であろか。闘士であったことの証である。勿論、夫のみでなく、パレスチナの闘争で失った仲間たちも含む。彼らが地獄の住人であることは言うまでもない。そして会いに行く自分も。それだけ罪の意識があり、覚悟もあったということだろう。

それにしても死者と会うのが「秋彼岸」であることが、これまた興味深い。日本的習俗は、彼らには忌避すべきものであったのではないのか。

 

飛んでゆけ こぼれし種子の吾亦紅獄から放つ力の限り

湯船から片手をのばして格子越し秋の落葉の一片拾う

空も樹も土も見えない獄だけどガラスみがいて五月にしよう

杖に頼り八十五歳の母来たるガラス越しにも手を重ね合う

 

獄中の生活を歌ってこのような短歌もある。犯罪者としていい気なものだという批判もあるだろうが、一日一日を大切に真摯に生きようとする一人の人間の存在を、私は無視しようとは思わない。