駄菓子屋はグラジオラスも売りていき裏に小さき畑をもてば

花山多佳子『草舟』(1993)

 

町内にあった駄菓子屋が二軒もなくなってしまったことを、二人の子供が事件のように真剣に話している。初めて二人で手をつないでおつかいに行ったのも町内の小さな駄菓子屋だったし、地域の子供たちのちょっとした息抜きの場だったのが駄菓子屋である。思えば小さな本屋や古びたゲームセンターもいつの間にか閉店した。子供たちの思い出の場所が消えてゆくのが何か寂しい。

さて、この花山多佳子の歌は、駄菓子屋が駄菓子のほかに生花も売っているところを詠んでいる。個人で経営しているような店だから駄菓子の他に何かいろいろ置いているのだろう。裏に畑があってそこで育てたグラジオラスをとって来て安価で売っている。一緒に買い物に来た大人がついでに買って行きそうだ。その店の雰囲気が伝わってくる。

 

小豆煮るまんなかに砂糖の山置きてずずと沈めるさまを見ていつ

 

こんな歌もおもしろい。確かに豆類を煮る時、普段はあまり入れない量の砂糖を入れる。その砂糖が真ん中に入れられて「ずずと」溶けて沈んでいく様子を一種の快感を感じながら見ているようで面白いのである。「山のように砂糖を入れて小豆を煮ている」という料理の歌にはしていない。

 

曇天をただかき回す単純にバトミントンに熱中し始む

 

「に」が一首に二回使われて、普通なら気になるところだが「単純に」の「に」は「単純さにおいて」という少し大きな範囲を指すのだろう。このバトミントンはなかなか羽根にラケットがあたってないのだけれど、それでも空をかき回しているような動作がやっているうちにだんだん楽しくなってきたのだ。

 

なめらかに渇きて割るる泥土の一枚拾えり利根川の辺に

 

「一枚」というところが面白い。一枚の板のように泥土が乾いている。そういうものに子供の時は面白くて何でも触れていたことを思い出す。

 

銀杏細工の亀は踏まれて砕けたり木の実でありしよりもはかなく

 

銀杏の実の丸い所を亀の甲羅にみたてて作った銀杏細工。それが落ちて踏まれて砕けている。それは木の実のまま砕けた時よりも何かはかなく無惨に見えたのだ。かわいらしく細工されて亀に作りかえられたからこそ、壊されたときにふっと湧き上がってくる感情。見過ごされそうな気持ちの機微が一首のなかにあり、こういう歌は花山多佳子にしか作れないように思う。