真鍮の分度器はつかに曇る朝母よあなたは子を見失う

服部真里子『行け広野へと』(2014)

 

何かとても怖い読後感が残った。「真鍮の分度器」は材質が特殊だ。子供が学校で使うようなものではない。計量の仕事などで使ってそうだ。それが曇るのであるから、湿り気のある空気や、冬の朝なども想像される。そんな朝に母が子を見失うだろうと、子に予言される。結句がこの歌のキーワードである。本当に子供がどこかに消えてしまって「見失う」のかもしれないし、子供の心を「見失う」ともとれる。どちらにしても大切に守ってきた子供が、そんな風になってしまうということは母としては耐えられないことだろう。

それを子自身に言われてしまうということは、子供が何か母に対してアクションを起こそうと考えているのか。もう母の手の内から自分はするりと抜けてしまうのだと宣言しているのか。私は、母の立場になったり、子の立場になったりしながらこの一首を読んだ。「母よあなたは」という呼びかけのところに、何か作者は強い意志を突きつけて詠んでいるように感じる。そこに怖さがあるのだ。もしかしたら下敷きになる物語があるのかもしれないが、どこか自分のことにひきつけて読んでしまった。

 

風の吹く床屋へ去ってゆく父がここからは逆光で見えない

 

このような歌も印象的で、どう解釈しようかといろいろ考えてしまう。「床屋」であるから休日に散髪をしに行こうとしている父が見えたのだ。「去ってゆく」というところが気になる。単に「出かける」でなく「去ってゆく」というのは、自分のもとから離れてしまう寂しさがある。そんな父が逆光の中に歩いていて、作者のいるところからはよく見えないのだ。「床屋」という日常性のあるゆったりとした設定なのだが「去ってゆく」や「見えない」で父の存在は一首の中で儚いような遠い存在に見えて来る。

 

冬の終わりの君のきれいな無表情屋外プールを見下ろしている

衝動買いしないあなたが傾けるペットボトルを気泡がのぼる

 

ひとを詠む場合、普通は表情などいきいきと表すような詠みかたをしがちだが、服部の歌では作者がこだわっている所が面白い。「きれいな無表情」はどんな感じだろう。クールで話しかけてもにこりともしない、気持ちが読み取れないような表情。それを作者は「きれいな」と形容する。冬のきりっと冷たい空気とマッチしたような相手の横顔が浮かぶ。屋外プールは人がだれもいずがらんとしているだろう。この場所の設定もリアルで雰囲気がある。二首目は上の句が特に面白い。相手の「衝動買いをしない」というところが作者は気になった。そこに自分との差異を感じているのだろうか。「衝動買いしないあなた」はあまり何にも動じず、物欲もそれほどない大人のイメージだ。「傾ける」だからゆっくりと何かをのんでいるのかもしれない。下句には透明感がある。

 

あとがきに作者は「短歌を作ってきたのは、つきつめれば人と関わるため」と書いている。「やまとうたはひとのこころをたねとして」といった古今集の仮名序の精神を思わせる。ここに少しあげた服部の歌は人との親和性を詠もうとするよりも、つるりと渇いた現代の人間関係や距離感のようなものが抑制された形で表われていると感じる。