山かげを立ちのぼりゆくゆふ烟わが日の本のくらしなりけり

保田與重郎『木丹木母集』(1971年)

 

保田與重郎『木丹木母集』からもう一首を。

保田に「天杖記」という文章がある。ついに単行本化されることなく生前の選集に初めて収められた戦争末期に書かれた文章である。1943(昭和18)年秋から翌年春にかけて書かれ、出版を予定して校正作業に一年、しかし機会を失い、1945年3月、徴兵された際には、この「天杖記」と「鳥見のひかり」の「加朱校訂せるものを、なきあとのこと思ひて、家人に托しお」(選集附記)いたという戦中の保田の遺書のような作品である。

託された妻は、空襲のとき、背に幼い子を負い、この二作品の入った袋を腹に巻いて、いつも防空壕へ入ったという話が伝わる。

「天杖記」は、明治天皇の四度に渡る多摩地方の行幸を記録した物語である。明治天皇は、近代天皇として大きな足跡を残した。「年々におもひやれども山水を汲みて遊ばむ夏なかりけり」というように六回の巡幸によって自らの姿を見せて全国を廻ったものの、それはあくまでも政治であった。しかし、それとは別に四度の東京(当時は神奈川県)多摩地区への狩や鮎漁のための行幸があった。「天杖記」は、その行幸の記録を探った物語である。

行幸に供奉する当時の高官、役人、そして天皇一行を迎えて兎狩りや鮎漁にもてなす土地の人びととの交歓が、さながら万葉時代の天皇の国見のようなおもむきで語られる。のびやかな文体で、初期の緊張感に研ぎ澄まされた批評とは違う、史談ふうの趣の作品である。戦後の保田の復活と言われた『現代畸人伝』につながるものと言っていいだろう。

歌枕でもある多摩の横山、向の岡、府中、八王子、とりわけ連光寺村周辺における兎狩り、多摩川の鮎漁は、「古のまゝの宮廷の御遊の俤が、新しい時代に現れた最後のものの如くに」感じられて、保田はその記録を綴った。愛馬金華山号にまたがった黒羅紗の陸軍式装束をまとった若き明治天皇、それに従う東伏見宮、北白川宮、山岡鉄太郎(鉄舟)らのいきいきとした行状、それを迎える関戸、貝取、一宮、程久保の村人たち、一度は恩方や御殿峠までも一行は狩場を求めている。

京王線に聖蹟桜ヶ丘という駅がある。この「聖蹟」が、この明治天皇の多摩行幸の史蹟である。多摩市連光寺の丘の上に、奇妙な形の近代的な円型建造物がある。ドイツやオーストリアの建築様式の影響を受けたというこの異風な建物が、多摩聖蹟記念館である。館内には、先に述べた金華山号にまたがる明治天皇30歳の等身像、および幕末維新期に活躍した人物の書画などが展示されている。1930(昭和5)年に元宮内大臣であった田中光顕の尽力によって建てられた。

今では都心へ通勤の便の良い、しかもまだ自然の残る住宅地であるが、行幸のあった明治10年代は猪や兎の狩場になるような武蔵野原野であった。その時代の空気感や天皇と土地の人びととの親しい交流を保田の「天杖記」は描きだしている。過剰な敬語に辟易するものの、書かれた物語には美しいものがある。日本浪曼派時代の過激な保田與重郎とは違った姿が見えてくる。

「天杖記」と題するように天皇の杖が問題になる。この杖は、1881(明治14)年2月第一回兎狩りの折、向ノ岡の眺望を楽しみ、駒桜から徒歩にて歩き出したところで「天皇はふと玉歩をとゞめ給うた」、そして「御自路傍の雑木を伐りとらしめ給ひ、急作りの御杖に遊ばした。それはかなり太い御杖であつた」という自然木の杖である。

「天杖記」は、この杖の行方を探った児玉四郎の「明治天皇の御杖」によって、今は(1945年当時)越後濁川村新崎の太古山日長堂にご神体として祀られていると述べる。「欅の自然木の皮つきのまゝの長さ四尺ばかり、径は一寸五分から二寸位にて、握り太のよほどに重い頑丈な」杖が、山岡鉄太郎の裏書を持つ箱に収められていたそうである。保田が、こう書いてから70年近くたつ、今この杖はどうなっているのだろうか。インターネット情報では、その行方は捜索できなかった。

今日ここに紹介した一首は、「天杖記」」の冒頭に「鎮魂歌」として掲げられた19首のうちの一首である。「鎮魂歌」3首と「遊び歌」16首に分けられた、「遊び歌」の方にこの歌はある。「鎮魂歌」はこの物語の序章のようなもので、この明治天皇と多摩の山野や人々との交流の物語を語ることによって、魂を揺り動かせと言っているのだろう。鎮魂の原義は、魂振りと魂鎮め、第一義は魂を活性化することである。そのことをこの3首が明らかにする。

「遊び歌」は、多摩行幸の印象的な場面が歌われていることから物語の摘要のようなものか。

 

はせむかふ手負のしゝに面おこしあはやと射たまふ宮のをゝしさ

やまかげにしゝ追ふをぢのおほまへにめされしはなしわれは忘れず

をとめらが赤裳裾ひきひさかたの天びとさびす時すぎにけり

 

「遊び」は、原義を辿れば、これまた鎮魂と同じ、魂振りに他ならず、魂の活性化にあるから、保田の意図は分かるだろう。

そして、今日の一首を含む次の歌々、

 

あはれわが向の岡をさりかねてしみじみ見たる夕けぶりかな

山かげをたちのぼりゆくゆふけぶりわが日の本のくらしなりけり

けふもまたかくてむかしとなりならむわが山河よしづみけるかも

 

「天杖記」本文に「今でさへ、連光寺村に一歩入つて、その秋の夕暮の炊煙が、横びく霧に交り、風なきまゝにしづまりゆく風情に接するなら、都近きわたりに、かゝる蒼古閑樸の景勝があつたかと、我眼を疑ふばかりの静寂の美観である」このように「日本の村のなつかしさ」を強調した。今日の一首の保田與重郎自身による注解と読んでいいだろう。

私は、この多摩、八王子に多少の土地勘があって、興味深くこの物語を読むのであるが、やはり現在のかの地の変化を思うと往時茫々は避けられない。しかしながらいまだ雑木の里山風景をわずかながら残しているのもこのあたりであることは間違いない。「天杖」の行方や明治10年代の面影を追う探訪も楽しそうである。日の本の暮らしの夕煙がたちのぼっていることを夢想してみようではないか。