子の学費払い終えたるビルの狭間篠懸の刈られいるを仰ぎつ

太宰瑠維『夕星』(1989)

 

『塔事典』によると、太宰瑠維は、大正13年生まれで19歳で「アララギ」に入会。「ぎしぎし」や「フェニキス」に参加し、学生短歌運動の中心のひとりであった。また「塔」の創刊にも関わった人物である。後年は「未来」に移り、この第一歌集『夕星』にも近藤芳美が跋文を書いている。

冒頭の一首は「学費を払う」という現実的なシーンを詠んでいて、下句にも殺伐としたものを感じる。銀行などで子供の学費という、まとまったお金を払い終えたのち、外に出ると街路樹の篠懸の枝葉が払い落とされる様子が見えたのだ。道路に落ちる落葉が問題となり、葉がちる前に枝を刈ってしまうことがある。そういう場面だろうかと思った。人間生活に合わせて何事も合理的に素早く進んで行く社会の仕組みを考える。

 

マーラーの悲しみ極まるときのまを客席ばかり見る奏者あり

 

作者は、クラシック音楽にも精通していて、多く詠まれているが、これは「京都市交響楽団」という詞書がついていて、生の演奏会を聴いているときの歌。マーラーの中でも有名な曲なのであろうか。悲しみが極まる旋律のときに演奏者を見ていると、指揮者を見ずに客席ばかりを見ている一人がいた。聴衆の反応を気にしているのか。作者はその旋律に感動していたはずなのに、奏者の表情によって少し気が散ってしまったのではないだろうか。純粋に演奏しているものと思っていた奏者の意外な場面があるのを見たのだ。

 

捉えんとすれど摑めぬ目鼻だちわが児逝かしめし夏の日遠く

 

この歌の一連に「六〇年安保の年に喪いし亡き児を偲ぶ四半世紀経ぬ」とある。若き日に亡くなった我が子を偲んで詠んだ歌だ。目をつぶって思い出そうとするけれど、輪郭はあるのに思い出すことの出来ないその子の顔。思い出せないことすらも作者にとっては罪のように感じられているのかもしれない。

 

花つけし酢漿草(かたばみ)ことごとく抜き去りて汗しとどなり(ゆう)(ずつ)を待つ

 

歌集のタイトルにもなっている「夕星」は夕暮れの西空に見える金星、宵の明星で美しい言葉である。黄色い花を咲かせているカタバミをつぎつぎと抜いている暑い日の暮れ。気温が下がり夕星が出ているのを待っている。「花つけし」というところに少し作者の拘りがあるのだろう。

 

心ひそかに燃ゆるものあり冬空に枝払いたるプラタナス立つ

 

冒頭の歌に似ている場面だ。プラタナスの枝を払われてぽっかりと広がる冬空。しかし作者の心には静かに燃え続けているものがある。「マルクスも予見せざりし世といえり思いたがえて降る春の雪」といった共産主義に関わる歌もこの歌集には多くある。